ID:43818
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by kai
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■『天日坊』
『天日坊』@シアターコクーン

うーわー面白かった、よかったよおおお。五代目勘九郎が始めたコクーン歌舞伎と言うバトンを、六代目勘九郎が受け取ったようにも感じられました。勘三郎さんもこれを見て(ご覧になられたようでよかった)「俺だってまたすぐ出るもん!」とか思ってるかなあ。コクーン歌舞伎の座組がこれからどうなっていくか判りませんが、元気になった勘三郎さんをコクーンで、いやあらゆる劇場でまた観たいです。

それにしても…気の早い話ですが、勘三郎の『法界坊』、勘九郎の『天日坊』と言われる日が来たらいいななんて思ってしまいましたよー。昼夜で連続上演とかさ!夢が勝手に拡がるわ。この作品は六代目勘九郎のレパートリーとして、新しい歌舞伎座でも新橋演舞場でも平成中村座でも持ってけるのではないか。これは再演されると思うし、上演が重ねられていくと思います。て言うかまた観たい!なるべく早く!

明治以降上演されておらず「生きている人間が誰も見ていない」河竹黙阿弥の『五十三次天日坊』が、平成の世に宮藤官九郎の『天日坊』として甦る。得てしてご都合主義にもなる歌舞伎の常套句、「実は」「後の」を逆手にとった脚色は、現代の天日坊=若者の「俺は誰だ?」を悲劇として浮かび上がらせる。あのとき三婆から話を聞かなければ、酒を三婆に持っていったのが自分でなければ。人間に魔が差す瞬間を鳥瞰で観察し、魔が差した人間の背中に張り付いて心情を描写するかのような冷酷さ。普通の心根のいい子が一瞬の惑いで人生を反転させる、そんな境界線をゆらりと描く。

序盤はほぼ現代語調の台詞。笑いもトバしてて、この辺りは『大江戸りびんぐでっど』を思い出してぬぬぬこっからどう運ぶ?とドキドキ観ていたところもあったのですが、この笑いが後にはっとするせつなさ、悔しさとして効いてくる。天日坊が大江廣元と向き合うとき、兄弟のようにじゃれあっていたときの法策と久助の姿を思い出す。そして前半の現代語調があるから、大江屋敷詮議の場での七五調が、もう出会ったときのようには言葉を交わすことが出来ないふたりの立場を際立たせる。時貞と高窓の関係もそうで、登場時チャームとして提示されてさえいた遅刻と言う悪癖のため、時貞は高窓を守ることが出来ない。法策が何度も口にする「マジかよ!?」と言う台詞は、前半は笑いで、後半は翻弄される者へのせつなさとして迎えられる。

二度とあの時間には戻れない。後悔してもしきれない。宮藤さんのこういう悔しさの描写はとても手厳しい。

で、宮藤さんの構成、脚色の腕は勿論ですが、ブラッシュアップされてもやはり込み入っている場面と時間の並び、それに伴い変化する登場人物の呼び名(主人公だけでも法策、天日坊、義高と三つありますからね)を解りやすく提示した串田さんの整理術が見事でした。小屋の転換とその背景画(これも串田さん自ら描いている)で、今どこに誰がいて、何が起こるかをスピーディに示す。音楽、衣裳も含め串田さんの審美眼が隅々迄行き届いていました。そしてそれを全てとっぱらった大詰めの立ち回り。敵方を黒衣にし、真っ黒な壁面が徐々に迫ってくる。義高を知っている伊賀之介とかけはし、赤星はもうこの世にはおらず、天日坊は葬り去られた。法策を知っているのはもはや大江廣元と平岡平蔵のふたりだけだが、彼らはそのことを胸に秘めたまま生きていくだろう。戒名もなくあの世の手前で暗闇に呑み込まれる主人公の最後の姿は法策か、天日坊か、義高か。閉塞感で充満した舞台を見詰め、ただただ立ち尽くす(座ってるが)。この幕切れの、死(肉体的な、そして存在を消される――最初からいなかったことにすらされる。あの斬り合いで命を落としていなくとも社会的には存在しなくなる)の表現には総毛立ちました。


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07月07日(土)
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