ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■さいたまネクスト・シアター最終公演『雨花のけもの』
無邪気なペットが似合っていた阿部輝、岩松演出の「不器用な人物」をしっかり表現してくれた内田健司、危うげななかにも芯の強さが光る人物像を見せてくれた佐藤蛍、悪どく浅ましい人物がこうも似合ったか!(ほめてる)鈴木彰紀、演技のさじ加減でDVとSMの微妙な差異を考えさせてくれた鈴⽊真之介、これまた岩松演出における「こわれゆく女」を見事に演じた周本絵梨香、最後の台詞を痛切に響かせてた煖エ英希、緊張と脱力の引き出しが多い竪山隼太、ふとした瞬間に笑いと悲哀を投げ込んでくる續⽊淳平、もはや千両役者のような安心感で観られる手打隆盛、「弱いいきもの」をヴィジュアルと声で表現した中西晶、風格と矮小を併せ持つ人物を優しさに包んで見せれくれた松田慎也、コメディエンヌとしての資質も見せてくれた茂手木桜子。
そして蜷川さんが亡くなったあとネクストシアターの活動を引っ張っていたひとり、堀源起はスケジュールの都合か声だけの出演。不在の声がここにも届いた。その声が、登場人物たちを導くかのように「がんばれ」「生きろ」という言葉を発したことに胸が熱くなる。
役者たちと同様、チーム蜷川で研鑽を積んだスタッフたちの仕事も素晴らしかった。暗転から幕開けを告げる光の美しさ(照明:岩品武顕)、劇場を反響させるかのような音響(金子伸也)、登場人物たちの経済状態だけでなく人格をも滲ませる服、小物(衣裳:紅林美帆)。この劇場へ通う度、ネクスト/ゴールドの作品を観る度、「これをつくったひとは誰!?」と何度となくクレジットで確認した名前だ。勿論、制作を手掛けるひとたちも。これからも観ていきたい、きっと観ていくチームだ。美術の加藤登美子は岩松さんとピッコロシアターの伝手からだと思うが、奥行きで「窓の向こう」を見せる装置と雪を表現する布の転換が素晴らしかった。上に抜けるこの劇場の機構が活かされていた。
集団に執着していない印象だった(まあ、私がそう思っていただけだが)松田慎也や手打隆盛、そして内田健司が、蜷川さんの死後ネクストシアターを離脱しなかったどころか、その活動に積極的に関わっていた(ように見えた)ことは、集団への愛着(実際そうしたものがあったかは当人たちにしか判らないだろうが)だけでなく、この集団が存在する意義を感じていたからこそだろう。外の世界で疾走する彼らを、これからも注目していきたい。ネクストシアターの有志で結成された第7世代実験室は、本公演の千秋楽当日に新作の告知(後述)を打った。彼らは既に歩き出している。
『桜の園』の引用である「できそこねえめが!」。あの台詞を幕切れに持ってきたところに作家、演出家の思いを見る。人間は誰しもできそこない。でも、生まれてきたから生きるのだ。『雨花のけもの』も『フェイクスピア』も「がんばれ」「生きろ」という台詞が印象的に使われていた。この時代にはこうしたシンプルでストレートな言葉が響くし、届くのかもしれない。今は、この言葉たちがただただ愛おしい。
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・ニナガワの子供達をイワマツの養子にという夢は叶わないですか? さいたまネクスト・シアター『雨花のけもの』┃note
「岩松は、登場人物の不器用さが俳優の緊張によって極度に研ぎ澄まされた時、観客に見せうる美しさになると知っている。けれどもそれは、生前に蜷川が、小器用な技術の習得ではなく、不器用さが観客にバレても必死で考え続けることが俳優の仕事だと伝えてきたのと同じだろう。『雨花のけもの』の完成度、スリル、おもしろさは、そこを根幹にしている。」
徳永京子さんによる考察。そう、私も夢想していたところはあったんだ。『薄い桃色のかたまり』も素晴らしい、忘れられない作品だったし、ゴールドもネクストも岩松さんが引き継いでくれないかなって
・さいたまネクスト・シアター、思い思いの稽古着で┃ケイコレ〜稽古着ファッションをお届け〜 Vol.27┃ステージナタリー
ちょっと変わった趣向で面白かった、いい思い出だな
#playthemoment
リモート演劇×シェイクスピア
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