ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
[648070hit]

■HEADZ Presents『スワン666』
原作はロベルト・ボラーニョの『2666』。880頁、\7,560というボリューム(しかも本文は二段組である)に怯んで未だ手が出せないでいる(この価格を知ったとき「絶版になってプレミアがついているのか」と思ったが、正規の価格です)。ビビりついでにウィキペディアの紹介頁を読む。『スワン666』の「スワン」は「2」にあたるというわけだ。原作のことは観劇後に知った。途中迄「いつもの飴屋さんたちのトーンだが、何かが違う」と思っていた。飴屋さんが、メキシコシティで女の子を買ったと語りだす辺りでようやく外国文学の翻案らしいと気付く。佐々木敦が出したお題というのはこれか。しかし騎士道という喫茶店(新宿通りにある)や大久保通りといった自分に馴染みのある場所も登場するので、一歩ひいて観ることが難しい。鳥貴族の場所も、周囲の様子もわかる。丸亀製麺の天ぷらは確かにとてもおいしい。

そうこうするうち、走れなくなって自ら頸動脈を切ったマラソンランナー(円谷幸吉)やメキシコシティで快楽と衝動のために殺されていく娼婦たち、人間のために選別されて働き、殺されていく鳥(ひよこからにわとりへ)といった「奉仕する道具にされる命」に焦点が合ってくる。食欲と性欲、暴力衝動が経済に繋がる。直接的な言葉も頻発し、恐怖感が募る。排卵日を尋ね、女性への暴力衝動を「それは女性のせいではなく自分自身の問題だ」と何度も呟き地を這う男。「誰か僕とおセックスしませんか」と叫び走りまわる男。金属バットで枕を滅多打ちにする男。飴屋さんはハンドマイクを水槽に投げ込む。マイクはノイズと衝撃音を発して水底に沈む。あっ、と思う間もなく水槽に頭から飛び込む。あまりに身軽、あまりにまっすぐ飛び込んだので、深い水槽の底に頭をぶつける。ゴツ、という鈍い音がする。

一方、女は出産の予定もないのに毎月卵をつくり続ける自分の身体のことを考えている。他者に食べられることもなく毎月捨てられていく卵たち。自分の肉体にしてもそうだ、何かの連鎖に加わるわけでもない。「生きていてもいいですか?」と女はつぶやく。この「生きていてもいいですか」というつぶやきで幕は降りる。山縣さんの「終わりでーす」という挨拶に我にかえる。終わりも地続きだ。

短絡的だとは思うが、このスペースがあるのは足立区だ。コンクリート、ドラム缶。暴力の捌け口となり殺された女の子のことを考える。ひとどおりの少ない暗い夜道(前述したようにとても劇場があるとは思えない、寂しい通りが続くのだ)で、駅前の繁華街に出る迄結構怖かった。大踏切をぼんやりと眺める。

セックスを交尾といい、生殖行為に過ぎないと常々話している飴屋さんに、どういう狙いで佐々木さんはこの物語の舞台化を依頼したのだろう。飴屋さんたちの手により焦点が絞られた(と思える)のは、女性を襲うかもしれない、女性を殺してしまうかもしれない衝動に苛まれる男たちの姿だ。それは同時に自身を恐れ、自身を嫌悪する衝動でもある。動物の本能について飴屋さんは考え続けているが、この破壊衝動は本能なのだろうか。ではそんなものを備えている動物は、どんな社会を形成していけばいいのだろう? 「生きていてもいいですか」などと問うのは人間だけだ。つきつめれば、人間は害悪でしかない。生まれてきたことに意味などない。だから懸命に生きるしかない。ただただ、死ぬ迄生きる。

中原さんには、以前の職場の昼休みによく遭遇してた。おひるごはんやおやつのエリアが被っていた。ライヴのキャンセルや原稿の休載が続いていた頃だ。この日見た中原さんはゆでたまごのようにつるっとさっぱりした顔で、快活に話し(上演前後。上演中彼はひとことも発しない)、身体つきもだいぶ違ってた。勝手にホッとしたりもしたが、今日聴いた音はやっぱり中原さんの音だったし、コラージュ作品も中原さんのそれだった。中原さんと加藤さんの「ムーンリバー」を聴けた。心が澄みわたるような時間だった。中原さんと山縣さん、小田さんのリズム感。ライム、ラップ。ダンスが生まれる。


[5]続きを読む

06月22日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る