ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■スガダイロー VS 飴屋法水『瞬か』
あれだけのピアノが破壊されていくのを見るのは初めてで、構えていたにも関わらずインパクトは相当なものだった。しかし音はところどころ派手ではあるものの、とても静かに感じられた。ひとひとりがハンマーで打ちのめすには、あまりにもピアノは丈夫に出来ている。一度の打撃で木っ端微塵になることは決してないのだ。百年現役でいられるものの強靭さと言おうか、そのボディはタフだ。終演後に知ったのだが、これらのピアノは制作側からの呼びかけで集められたものだった(『お疲れ様ピアノ』大募集!)。他の日にも使用されたのだろう。どう使用されたかはそれぞれだろう。しかし、この日ステージにあった五台のピアノは、葬られるためにやってきたものだった。
それは破壊と言うより、解体を見ているようだった。解剖実習を見ているようでもあった。力任せでは壊れないものを、どこが外れやすいか、割れやすいかを探り乍ら、確実にバラバラにしていく。その過程で、ボディの構造を理解して行く。この板の向こう側にはこんな器官があったのか、それはどんな機能を持っていたのか。飴屋さんはバールも持ち出して来た。ハンマーで割り、バールで剥がす。初めて目にしたそれは、見たことがないものを見せられると言う怖さだけでなく、好奇心をも刺激する。ピアノはその機能を失って行く。
いつの間にかスガさんの身体からマントが落ちていた。いつの間にそうなったのか、全く気付かなかった。耳は不思議とスガさんの演奏を捉えていたが、視線は飴屋さんに釘付けになっていたからだ。聴覚はスガさん、視覚は飴屋さんにロックオンされた状態だった。飴屋さんがおもちゃのピアノから数音鳴らし、スガさんがそれを追って耳コピしていくところがあり、そこではちょっとリラックス出来た。どうしても一音一致しない。それはおもちゃのピアノにしか出せない(=調律したピアノの音階にはない)音だ。スガさんはそれを調律された音にトリートメントしたのだ。演奏家と身体表現家のちいさな裂け目を見た気がした。スガさんは意図を持ってピアノを傷付けることはしないが、あの激しい演奏を見てのとおりピアノに優しい訳ではない。飴屋さんも傷付けるためにピアノを解体している訳ではない。スガさんはピアノの命を全うさせ、飴屋さんはピアノを葬る。どちらもピアノを弔う行為には違いない。
その様子は怖いものだった。破壊行為が、ではない。演奏や行動の激しさが、でもない。引導を渡し、同時に悼む。恐怖感は死に対してのものだったのだと終演後思い至った。怖いのだが、嫌悪感はない。畏怖、と言う言葉がいちばんしっくりくる。
ステージ上からバトンが降りて来た。飴屋さんが解体したピアノのパーツを紐でくくりつけていく。スタッフに合図を送り、バトンが上がって行く。鳥葬のために吊るされた死体のようにも見えた。飴屋さんが退場し、スガさんが演奏を続ける。それはとても美しいメロディで、この壮麗な葬送曲で終演を迎えるか…と思ったが、そうは問屋がおろさねえ。次第に演奏は熱を帯び、激しい音が繰り出された。それはひとりきりになった開放感にも、自身の表現方法に欠かせない楽器を目の前で破壊されたことに対する激情(怒り、憤りとは言い切れない複雑な印象を受けた)にも、ピアノの生命力を確認する作業にも聴こえた。ふと気付く。スガさん、登場してから殆ど指を休めていない。ピアノの破壊音が大きい時は激しい音を、そうでないときも滑らかな運指を。すごい体力と気力。しかも前述のとおりメロディがとても美しいのだ。バトンの昇降や、美しいリフレインの音楽は『転校生』を思い出した。死はどんなものにも訪れる。生きることと死ぬことは決して、絶対に切り離せない。そして死には、身体が不可欠だ。
ふたりとも挨拶なしに退場して行き、カーテンコールの拍手にも応えることはなかった。困惑、放心したような観客席。やがて我に返ったように、バラバラな行動をとる。立ち上がってステージを見詰める者、会場を見渡す者、ステージに近付き、ピアノの残骸を携帯やスマホで撮影する者。それら思い思いな生態は、見ていて自然で心地よいものだった。ひとは同じ行動をとる必要はない。強制されることもない。生きるさまも、死ぬさまも、それぞれでいいのだ。
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11月01日(金)
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