ID:4157
西方見聞録
by マルコ
[201262hit]

■酒井順子C〜まだ、やります。
(つづき)

3)女のセギュメント(分節)構造

 セギュメント構造というのは文化人類学の古典エバンズ・プリチャードのヌアー族で紹介された概念です。たとえばヌアー族の1戦士である私が私の兄弟とケンカしているところに従兄弟が攻め込んでくる。従兄弟よりもより近しい関係にある兄弟とのケンカはとりあえず中止して、兄弟と共同で従兄弟と戦う。そこにおじいさんの兄弟の孫たちが攻め込んでくる。すると従兄弟と休戦して共同でより遠いカテゴリーのおじいさんの兄弟の孫たちと戦う。そこに隣村の若者が攻め込んでくれば親族同士はとりあえず休戦し、共同して隣村の若者に対する。さらにそこに異民族であるアザンテ族が攻め込んでくるとヌアー族の若者は部族の内紛を休戦し、部族の若者はアザンテ族と戦う戦友に早変わりする。

 まあこれがセギュメント(=分節)構造です。

 さて、ワタクシは専業主婦さんではありません。以前より仕事が減って、稼ぎも悪くなり社会保障もやばくなって、より専業主婦さんに近い存在になった今、専業主婦で満ち足りて幸せになってしまう自分像がかなりリアルで(間近で見ると思ってたより楽しそうです>専業主婦)それがたまらなく怖いのです。わたしは専業主婦さん道を邁進するのを恐れる女なんだと思います。しかし負け犬@自給自足の女、酒井順子が専業主婦を「鈍感盛り」のお年頃(P.34)、と断じると、「そうでもないよ、子育て中ってけっこう内省的になっちゃうんだけどさ〜」と思わず専業主婦さんを弁護してしまう自分がいます。
 しかしスポーツ記者の岩田暁美さんの「壮絶な戦死」に対する広岡達郎氏のコメント「社会人としてはいい仕事をしたが女としてはどうだったのか」(P.204)に接すると、たちまち、「だまれ!おやじ!!」という魂のシャウトが湧き上がります。
 わたしが普段シンパシーを抱いては負けてしまうと気をつけている専業主婦さんも、負け犬と言う他者の前ではとたんに子育て中の仲間になり、おやじの女卑的発言の前では負け犬も勝ち犬も女の名のもとに結束する。これが今回感じた女の分節構造です。負け犬は他者であっても、やっぱり広い意味では戦友なのです。

 きっとゴリラが攻めてきたら、おやじとも仲間になれるかもしれません。

4)つきぬける

 本書の巻末に「負け犬にならないための10か条」と「負け犬になってしまってからの10か条」が添付されています。

 さて負け犬になってしまってからの10か条で一番最後に「突き抜けろ」と酒井氏は負け犬を鼓舞して筆をおきます。「せっかく負け犬になったのだから、たとえ奇人変人と言われようと、途中で力尽きて倒れようと、勝ち犬には決して出来ない突き抜け方をしてもいいのではないか」(PP.274〜275)この突き抜けられない勝ち犬に関しては我が畏友さるとるさんが「現象的には勝ち犬であっても、仮性負け犬として突き抜けていけるのか自分は、いや突き抜けてやる」という母の幸せの中にからめとられようとする自らの野心への血の滴るような切ない思いを淡々と日記にしたためておられます。

 なぜ勝ち犬は突き抜けるのが難しいのか。なぜ負け犬は突き抜けようとすると「(仕事では成功して、美人で頭が良くて、センスがよくても、)あなたは、女としてしあわせではない。」(P.172)という殺し文句に足をすくわれねばならないのか?何故勝ち犬も負け犬も突き抜けるのをは何者かにばまれるのか?

 この辺のなぞはフェミニズム人類学の古典論文シェリ・B・オートナーの「女性と男性の関係は自然と文化の関係か?」でも紐解くといいと思います。この論文はこちらでも読めます。


[5]続きを読む

02月13日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る