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衛澤のどーでもよさげ。
by 衛澤 創
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■何だかんだ言って。
その腰の曲がり方は絵面として重要な要素で、城の中を掃除する場面を境いに老婆姿のソフィの腰は次第に老婆の姿のままで真っ直ぐに近く伸びていく。「ああ、動きまわるようになって腰がしゃんとしてきたな」と思う頃に気が付かないようにしかし気付くと吃驚するように仕掛けがしてある。ソフィの顔から老婆の皺が減り少女の顔つきに少しだけ戻ったりまた老婆になったりを繰り返すのだ。
それは明らさまなモーフィング処理ではなく、ようく見ていないと判らないくらいの変化をおそらくは動画処理によって見せているのだとは推測するが、少女と老婆の間を幾度となく揺れ動く面差しに驚かずにはいられない。
パンフレットによると宮崎監督は「ソフィは18歳から90歳までをひとりで演じられる人に」と仰ったらしいが、その理由はこの描写でよく判る。18歳と90歳が明確に区切られている訳ではないのだ。その間を何度も何度も揺れ動いて、その揺らぎを微かな変化で描写しているから声にもその変化が必要なのだ。18歳と90歳で声優を変える訳にはいかない。倍賞千恵子さんはみずみずしい少女も肝の据わった老婆も同じ舞台で澱みなく演じなさったと思う。
この作品で一番見なければならないのはハウルでも城でもなく、ソフィなのだ。
ハウルのキャラクタ性に幾らか疑問が残る。
「美形として描いた」、「美形の声をイケメンアイドルが演じる」ことが目玉のように公開前広報では言われていたが、それに何か意味があったのだろうか。少なくとも私はその必然を感じなかった。この要素の眼目は「少女の夢を実現する」ことなのだろうか。
戦火は近くまで来ているけれど取り敢えず日常を営める世界で地味に家業を継ごうとしている少女の前に突然美形青年が現れて一緒に空を飛ぶ。その現実離れした出会いから、醜くなった姿で「報われなくてもいい」というような崇高な気持ちで美形青年に尽くしてゆく過程を経ると青年は少女の価値に気付き、少女の想いは報われ、少女にかけられた呪いも青年にかけられた呪いも解けて、ふたりは結ばれハッピーエンド。大雑把になぞると「ハウルの動く城」という映画はこういうおはなしだった訳で。
この側面だけを見るとほんとうに「女の子向け」なのだと思う。
しかしその扱いをした場合、ハウルは偶像でしかないように感じるのだ。生きて努力して苦しんで存在するようには感じられない。つまりアイドルっぽい。魅力的な人物とは思えないままに観賞を終えた。決して厭なキャラクタではないけれど魅力的でもない。言ってしまえば物語に必要なコマと言うか記号と言うか、そんな感じだ。
「弱虫の魔法使い」ということだったが、「弱虫」であることも「魔法使い」であることもあまり強く感じられなかったし、必要性も感じなかった。言ってみればフレーバーでしかなく、これは宮崎監督自身がハウルという青年像を消化しきれないままで描いてしまった結果なのかも知れない。
もうひとり勿体ないのがかかしのカブ。謎めいて謎めいて、その結果ぽんと呪いが解けて王子様でした、とは拍子抜けするしかない。原作でそうだったのかもしれないが、彼はかかしのままの方がよかったのではないだろうか。「王子様」という記号が必要だったのだろうか。そのようにも思えないのだが。
ハウルにもマルクルにもカブにも荒地の魔女にも、ソフィは「平等の」愛を以て接していたと思う。それは「家族愛」や「人類愛」と言えそうなもので「恋愛」とは別のものではないか。だとしたら、この作品はラヴストーリイとしては決定的なものを欠いている。恋愛ものなのか反戦ものなのかどっちつかずになってはいなかっただろうか。身も蓋もない言い方をしてしまえばソフィは「いい人過ぎ」て現実味を欠く人物像でもある。
と、あぶり出しの中では苦言を並べもしましたが、観る価値のある映画であることは間違いないと思います。
もうひとつ特筆すべきは「街の活気」。宮崎監督作品には街に住む人々の息遣いがいつも活気強く描かれていて、それを見るだけで自分も今日一日をがんばろうという気になれる。庶民のヴァイタリティ、それが街の描写には溢れています。
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12月12日(日)
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