ID:34326
ドラマ!ドラマ!ドラマ!
by もっちゃん
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■味方
お釈迦様がコーサラ国の郊外の祇園精舎に滞在していた時、サンガーラヴァというバラモンと話しているとバラモンが急に思い出したように「お釈迦様、私は澄みきった気持ちになる時があって、その時はこれまで学んだことや憶えたことを不思議なくらいスラスラと話すことができます。また、頭が重く混迷している時があって、その時はこれまではっきりと憶えていたことさえも思い出せないことがります。これは一体どうしたことなのでしょう?」と尋ねました。それに対してお釈迦様は「バラモンよ。この容器に水があるとしよう。その水が赤・黄・青などの色で濁っている時、その水に自分の顔を写しても、ありのままみることはできない。」続き貪欲で濁っている時、沸騰している時、怒り苦しみで濁っている時、苔などで覆われている時、波立っている時、同様に人の心が躁鬱であり愚癡(ぐち)に覆われている時、「何事もありのままに写らないのです。」と答えたのです。微笑みながら説き聞かせ、最後に「澄みきった水に自らの姿を写し、それをありのままに見るならば、自らの歩む道の疑惑を知ることになり、何が自利利他であるかを如実に知見するのです」と説き示したそうな。それを受け、某教授は「私たちは自分の顔を写し出すものがなければ、自分の顔を知らないまま、命終ります。それは空しいことです。それと同様に、私の心を写し出すものがなければ、本当の姿を知ることはできません。知ってるつもりでも、常に我執、と我所執の煩悩にまみれた心で曇っていては、いつでも自分を闇雲に正当化してしまいます。」さらに宗教的ですが「今の私の有様を知るには、ありのままの私を写し出すものが必要です。仏陀の智慧はありのままの私を写し出すものであり、その慈悲はどんな姿の私でも慈しんでいるのです。そこには、煩悩だらけの私を知らされるつらさとともに、自分を知らされる慶びが生まれます。」



 長い引用でしたね。退屈でしたか?これがぴったりあっているとか、このことで彼の行動を正当化しようとしているのではない。鏡に姿がうつるということで思い出したので。・・・彼のモノローグにも、それが正当化される言い訳にすらならないことはわかっていた、とある。どんなに卑怯なことかも。もし彼が、歪んだ医師でなく、小日向さんのような医師にめぐりあえたら・・・。例えば、恋人。どうして、残していく辛さはあっても愛する彼女と最期の時を過すことを選べなかったのか・・・。それは果たしてどっちが残酷なんだろうか。わからないけれど。本当に最愛の人だからそうできたのか、最愛の人ではなかったからそうできたのか。だけど、もし自分に苦痛を与えないために、彼は自分の元を去り、孤独と病とたたかいながら、死んでしまったと知ったら。彼女の痛手は、ある意味大きくないか?もちろん、この物語は、雛と出会うことで、転がっていって、湖賀は幸せに死に向かうことができるようになるのかもしれないが。これも小日向さんのような医師だったら、どうだっただろう。彼女と別れることを無理矢理強引に薦めただろうか。残されていくものにも、心の準備がいるのだ。残されていくものにも、残されてから聞きたかったことが聞けなくて苦しむこともあるのだから。

 京本にたいして、成宮君の存在も鏡である。
 突出して天才的に無感情に犯罪的な事を平気で犯す考えをもつ人物を描くのも野島作品だ。最終的に原因めいたものが見え隠れするにしても。その点、病気が発覚し、あの医師にあやつられるように依存するまでは普通の、ただどちらかというと人間関係は希薄であった数学好きの優しい青年が、こうも残酷になってしまう、というほうが、物語としては斬新かもしれない。そして不幸中の幸いで、運命といおうか、出会って実験対象に選ばれたのは、誰でも良かったのであるが、そのとき、そこにいたのは雛なのである。湖賀にとって本当に味方であるる人物、それは恐らく雛であろうが、そう早く気づくことが不幸や悲劇をうまないことだと思う。他の登場人物もそうである。味方のいる人生。それが近くとも遠くとも、味方でいてくれる人のいる自分。


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01月28日(火)
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