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武ニュースDiary
by あさかぜ
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■蔡康永と太平輪
太平輪を所有していた船会社があの蔡康永の父親のものであったということは、
すでにあちこちのニュースで触れられていますが、
当の蔡康永がこのことについて書いた文章がアップされていたので、読んでみました。
どうも2009年以前に書かれたものらしいのですが、出所がまだわかりません。
ここで読みましたが、これは台湾の女性作家の書いた『太平輪一九四九』のレビューのページに引用されています。
百度の蔡康永所謔フスレッドにも本文が張られているけれど、
スレッド主もネットを見ていて見つけた、とあり、ある新聞では、
蔡康永は太平輪について決して話したことはない、と書かれていると言っています。
でも、いつの映像だか、記者に問われて答えているので(望遠鏡のこととかも)、
やっぱり本人がどこかに書いたものなんでしょう。
蔡康永は作家でもあるんだけど、私たちが知っているのは、
「左右」のときのインタビュアー、金馬奨の司会者、
そして小Sとコンビを組んだバラエティ番組「康熙来了」ですね!
テレビ番組でもとりあげられているんですね。
映画の雰囲気がなんとなく想像されてくるような……
これとか
わが家のタイタニック
蔡康永
子どものころ、家にこんなものがあった。
船から持ってきた品々で、その中に木枠に革を張った肘掛け椅子があった。
革を張った縁は真鍮の鋲で留めてあり、とても座り心地がよかった。
「それは蒋中が私たちの船に乗るとき、一番気に入っていた椅子だよ」と父は言った。
また、ものすごく重い望遠鏡もあり、本当に遠くまで見ることができた。
私はときどき窓辺に立って、この望遠鏡で道路3本以上遠くを
歩いている人たちの表情を見たりした。
しかし船用の望遠鏡をしばらく支えていると、手が痛くなるのだった。
革の椅子と望遠鏡は、「私たちの船」から持ってきたものだ。
「私たちの船」とは?
いわゆる「私たちの船」とは、実は数十年前、父が上海で創立した船会社の船のことだ。
この会社が所有した船の中で一番有名な船は、名を「太平輪」という。
「太平輪」、中国の「タイタニック」
1949年、国共内戦が始まった年。
この年の大晦日、急いで上海を離れようとしていた富裕な人々は、
急迫する状況を察知し、年末であることなどかまっておられず、
既に満席の太平輪に乗ろうと必死になっていた。
これらの人々は、金の延べ棒を持っている者はそれを席と交換した。
先客から強引に席を買ったのだった。
コネのある者は、私の父や他の仲間から最後のいくつかの席を手に入れた。
当然、これらの太平輪の最後に乗り組んだ乗客中には、
当時上海で最も富裕な人々や、また父の最も親しい友人たちが含まれることになった。
戦乱ですみかを追われる時代に、運命の神は
自分自身コントロールできないひねくれた気持ちになっていたかのようだ。
太平輪、航路半ばで事故で沈没
生還者はいなかった。
船上に散らばって流れ着いた宝飾品や仏像などが、
多くの漁民を驚かせ、悲喜こもごもの思いにさせた。
父は私に太平輪沈没の原因を1度も語らなかった。
口にしたのは、ただ、当時父の会社は
全ての船にヨーロッパの保険会社の保険をかけていたということだ。
唯一、太平輪だけが、就航の前、上海の親友が保険会社を興したことから、
お祝いの意味で、手持ちの船で一番大きい太平輪の保険を頼んだのだという。
太平輪の事故が起きると、親友の保険会社は、すぐに倒産を宣言した。
すべての賠償は、船会社自身が負担しなければならなかった。
だが、太平輪で遭難した乗客は、非常なお金持ちや高官だったので、
どんなに賠償しても家族を満足させることはできない。
訴訟は終わりを見ることができず、太平輪以外の会社のすべての船が、
台湾の高雄港につながれたまま、錆びて廃船となっていった。
「私たちの船」は、このとき、一切合切地球上から姿を消したのである。
1対の革張りの椅子と、1丁の望遠鏡を除いて。
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07月12日(金)
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