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武ニュースDiary
by あさかぜ
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■映画評(武侠)
静かな日々がまた戻ってきたのか!?
しこしこと、「武侠」関係の記事を続けます。
これは大陸での公開直後の映画評です。


「武侠」というタイトルは誤解されやすい。
予告編と8分間のショートフィルムが公開されるまで、
我々はずっとこの映画を、時代劇の衣裳をはおっているが、
ちょうど幾本かの、新時代の武侠とは何かを教えようとした過去の作品と同様の、
平凡に堕したいわゆるアクション大作であると思いこんでいた。

武侠映画は中国独特のジャンルとして、歴史が長いだけでなく、
観客の心に既に認められている。
我々は、チャン・チェ、ブルース・リー、ツイ・ハークを懐かしみつつ、
ここ10年来、武侠映画がどんどん王道から外れてきていることにも
やりきれなさを感じてきた。
「武侠」の公開日として7月4日、すなわちアメリカの独立記念日が選ばれた≠フは、
意図的ではないかもしれないが、そのめぐり合わせのもとで、
映画はすみからすみまで力強い姿で立ち現われたのである。

あるいはアン・リーの「グリーン・デスティニー」の後、
ウォン・カーウァイの「一代宗師」の前にあって、
これは中国語映画界の文芸的持ち味が最も濃い武侠映画ではなかろうか。
アクションシーンがなくても、もう1回見たいと思わせる武侠映画は、
指折り数えても確かに多くはない。

ピーター・チャンは、この最新力作は「ミクロ世界の武侠」を描くのだと高らかに宣言したが、
実際、賢い選択だった。
表現手段の1つとして、映画は最も有力であり、その一番の魅力は、
一般的に言うと、クローズアップとスローモーションの2点にある。
簡単に言うと、ミクロの目である。
伝統的な武侠映画の最もすぐれていて、魅了される部分は、実はアクションに外ならないが、
厳密に言うと、アクションと「映画」は無関係だ。
簡潔できびきびしたスピード感ある編集を取りはらったとしても、
武術の使い手の戦いのシーンは、やはり同じように血を沸き立たせるのであり、
モンタージュは、ただそれをもっと賑やかにしているに過ぎない。

ピーター・チャンはそこに不満を覚え、観客に賑やかさの奥へ通じる道を示したいと思った。
そのために、彼はハイテクの助けを借り、大量の特殊撮影を使って、
新境地を開く人体解剖実験を行なった。
もし、「グリーン・デスティニー」が、視覚的特殊効果の力を借りて、
人は「なぜ殺されるのか」という高邁な命題を明らかに説いたのだとすれば、
「武侠」の態度はずっと謙虚でつつましいものだ。
人が「いかに殺されるのか」を説明したい、というだけなのである。

武侠世界では「どのように」の問題は触れるに値しない、
重要なところを避けて二次的なものを取り上げる嫌いがある、と考える人もいるに違いない。
だが、それが映画の本分に最も近いものであることは、認めざるを得まい。
もし、フィルムができることを、紙と筆、油絵や楽譜が代わりにできるなら、
江湖の恩讐についてもっと語っても、話はずれていくのである。

ポスターに書かれた「甄唯武」という表現が腑に落ちず、
何を言っているかわからないという人もいる。
出番の多くないタン・ウェイはさておいて、
ドニー・イェンと金城武(特に金城武)の演技は鮮烈で心に残る。

ドニー・イェンのここ何年かの努力はほとんど誰もが知っている。
しかし、彼が演じた文武に通じた様々な人物は、ある固定感を脱却することなく、
「浅薄」の一言で了解できると言ってよい。
だが、「武侠」の劉金喜は、秘密の身の上を隠しているので、
スーパー・ドニーは、何よりもまず正邪あわせ持つ人間を演じ出さねばならない。
深く内に秘めていなければならないが、やりすぎてもだめだ。
観客はあらすじだけで、もう真相を推測しているのだから。
森の中の別れのシーンで、劉金喜は心の読めない行動で、
金城武演じる徐百九を悩ませ、観客も悩ませる。
ドニー・イェンはとうとう、無数の喧嘩早い役を演じた末に、
自分の説得力ある目が、新しい潜在能力を宿していることを知ったのだ。


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08月11日(木)
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