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武ニュースDiary
by あさかぜ
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■ピーター・チャン、涙を流す@
前売り券が1枚残っていた「レッドクリフPart1」に行きました。
シネマート六本木。
80数席のスクリーンでに思ったより多い人が、
いい感じに入っていました。カップルが目立ちましたねえ。
どうしようかと思ったけれど、がんばってもう一度スクリーンで
見られてよかったです。

そうなると、あと1回! 「怪人」が見たいなあ……
上映館がかなり少なくなっているし、うーん、20日までに行けるだろうか?

香港の金像奨ノミネート。納得していません。
でも、言うとつらくなりますからねえ。
ファンとしてはお利口にならざるを得ません。が、やっぱり納得はできません。

これは、もう去年の記事なのですが、ピーター・チャンの話が興味深かったので、
長いけれど、やってみます。
特に武のことを言っているわけではないんですが。
ピーターさんの作品があまり好きでない人は読んでも面白くないと思います。
私は、なんか、ああ、そうなのかとわかった気のするところもあって、
大変面白かったです。


ピーター・チャン:
「あのときは、ただ1度だけ、涙をながしたときでもありました」

ピーター・チャン、唯一度、涙を流した経験を語る

大陸の多くの監督たちのように、ピーター・チャンもスタジオを
北京、東三環の万達広場付近に置いた。
今年初め、仕事の中心はすでに大陸に移したと公言していたけれども、
スタジオで仕事が行われている景色は相変わらずない。
午後4時の取材の約束のために3時半にスタジオに着いたとき、
彼はまだ大陸のプロデューサー、黄建新と脚本会議中だった。
4時ちょうど、取材を受けるため、部屋に入ってきた。
1時間の取材が終わると、彼はまた会議室に戻り、会議を続けた。
黄建新はその間、まるまる1時間半、ピーター・チャンを待っていたのである。

「投名状」からこの1年、ピーター・チャンは
香港と北京をひんぱんに行き来していたが、
彼にとって、2008年は思索の1年であった。

「この1年の成果はどうだったかというご質問ですが、
会社の今後3〜5年のきちんとした方針を立てることに
注いだようなものでしたね――1年間本当に何もせず、
じっくり考えるなんてことはめったにありませんよ。
今年の1月から5月までは、
会社の方向を決め、脚本に目を通すことに専念していました」

そして「如果・愛(ウィンター・ソング)」と「投名状(ウォーロード)」の成功と、
さらに香港の映画産業及び映画市場がどんどん先細りになっていったことが、
彼の、北京に大本営を設ける動きを加速したのだった。
「サンドラと娘がちょうど帰ったところです。2人はここに10日間いました。
将来必要になれば、サンドラと娘さえ構わないなら、
北京に引っ越してくることを考えています」

2006年11月25日、北京に初雪が降った。
その夜、ピーター・チャンは、収集した戦争に関する資料映画を
カメラマンの黄岳泰と一緒に見ていた。
次の作品「投名状」の中の戦争の場面の撮影準備のためである。

このとき、「投名状」の製作費は、目標だった1000万米ドルから、
3000万ドルへと膨らますことがもはや既定事実となっていた。
そして彼がジェット・リーのために設定した、従来のイメージを覆す役柄に、
出資者はまだ不安を捨て切れていなかった。
外部の疑惑の目と自分自身の恐れ、これにどんなプレッシャーが加わっても、
彼を徹底的に打ちのめしかねなかった。

このとき、まさに、サンドラ・ウーは、台北のビッグエッグで
第43回金馬奨授賞式に出席中だった。
最優秀監督賞発表までに、「如果・愛」は最優秀映画音楽賞と
最優秀撮影賞の2つしか獲得していなかった。
ピーター・チャンの携帯は、サンドラ・ウーからの短いメールでびっしりだった
――「終わった、終わった、望みなし」。  

ピーター・チャンは台北の会場には行かなかったのである。
1つには仕事があったからだが、もう1つの理由は、
受賞できる自信が全くなかったためである。
だが、今回、その判断は誤っていた。

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02月14日(土)
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