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武ニュースDiary
by あさかぜ
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■別の差別(金像奨関連)
11日に触れた、譚飛さんのブログの記事です。
金像奨が金城武をノミネートしなかったのは別種の差別
金城武は、今この時代を表す顔のひとつである。
美しさもクールさも、凡俗をはるかに超越している。
ぼくは、ある女性記者が金城武に肩をたたかれて、
興奮のあまり、しどろもどろになっているのを見たことがある
――彼女にたとえ恋人がいようと、彼女にはわかっている。
帰って「金城武とぶつかった」と吹聴しても、
彼が焼きもちを焼くことは決してないだろうと。
彼も他の男たちも、金城武と顔の良さや魅力を競ったり、
どちらが早く女の心を射止めるか比べようなどという考えは、
はなから捨てている。
天津の美人記者、小丁が発明した面白い新語「色女郎」を
厚かましく盗用させていただこう。
なぜなら、大勢の女の子が「如果・愛」を見に押しかけたのは、
みな、金城武という、この生まれながらの美形≠
鑑賞するためだったからだ。
この点において、男どもがミシェル・リーや
ニコール・キッドマンを見に行列するのと何ら変わりはない。
色女郎とは、則天武后のことではなく、
21世紀の男好きの若い女性を指す。
この言葉は非常にユニークで、豊かな時代の特徴を持っており、
私がこっそりいただいている言葉≠フ基準を満たしている。
だが、美女が天も羨む美人≠ナあるのに対し、
色女郎≠ェ賛美する美男の運命は、すなわち男花瓶=i飾り物の男)だ。
金城武はデビュー以来今日に至るまで、芸能界から飾り物≠ノされてきた。
この飾り物は、まだ栄国府前の石の獅子ほどではなく、
皇宮中の絶品・景泰藍というところだろう――
「これは大金をかけ、海路で取り寄せた品でございます」と
解説されるのにぴったりの。
それゆえ、金城武が「如果・愛」に誠心誠意取り組んで、
これを自分の芸能キャリアの
新たなスタート地点としたいと願ったときに、
香港電影金像奨は無情にも彼にこう告げたのだった、
「すまんが、君はまだだ」と。
賞がすべてを表すわけでは決してないが、
それにしても今回のノミネート落選は実に残念なできごとだった。
ぼくには金城武の無念がわかる。
チャン監督の惜しみ哀しむ気持ちはもっとわかる。
なぜなら、彼は金城武がこの映画に
非常に多くのものを注ぎ込んだのをよく知っているから。
「如果・愛」の、金城武にとっての意味を深く理解しているから。
金城武がノミネートされなかった真の理由を口にする者はいない。
「如果・愛」はあんなに多くの部門でノミネートされたのに、
彼はその11分の1にさえなれなかったのだ。
それはただ彼がきれいな男だからなのか?
金城武の歩んできた芸能生活を振り返れば、
1歩1歩確実な足跡を刻んで前進してきている。
「如果・愛」での演技は、新しい高みに達したものだとぼくは思う。
すでに役と自分自身とが渾然一体となっているのだ。
「如果・愛」を見た者なら、
彼の映画の中での目の演技が深く心に残るはずである。
場をさらってしまう力のかくも強いジョウ・シュンと相対して、
金城武の演技は充分に力強く
、時空の転換にともなう役柄の演じ分けは自然で滞りがない。
目はなめらかにグラデーションのように変化する。
たびたび登場するジョウ・シュンとのシーンでは、激情があふれ、
観客は男女関係なく、胸がどきどきさせられる。
もし、美しさ≠ェ金城武が金像奨にノミネートされなかった
理由なら、ぼくは声を大にして異を唱えたい。
これは一種の差別であると。
世間では醜さ≠ノ対して一般的に差別があるのに対し、
映画賞にあっては美≠ヨのある種の排斥が存在しているように見える。
このような別の差別≠フもとで、
イ・ヨンエはしとやかな美しさに別れを告げ、
復讐の女神を演じることによって初めて大きな賞を獲得した。
セシリア・チャンは母親にな≠轤ネければ、
主演女優賞をとることはできなかったし、
アーロン・クォックが主演男優賞を取るには、
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02月15日(水)
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