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武ニュースDiary
by あさかぜ
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■蔡康永と太平輪
太平輪はなぜ沈んだのか? 私は父に尋ねたことがない。
1つには、思い出させて愉快にはならないということがわかっていたからだ。
特に何もないのに父に聞きただすのは、やはりよくないことだったろう。
もう1つには、この事件はぼくにとって、実際すごく遠い話だった――
いわゆる「我が社の船」を、ぼくは1艘だって見たことがない。

ただ、1度だけ太平輪のことを持ち出したことがある。
中学校のとき、新聞で「船舶王・董浩雲」のニュースを見た。
父はすぐ、太平輪がまだあったころ、
董浩雲の会社はまだ創立したばかりだったんだと言った。

そこで、私は新聞を置き、非常につまらない質問をした――
「父さん、もし太平輪が沈没しなかったら、ぼくも船に乗って
海を見ながら朝ごはんを食べたりできていたんだよね?」
「そうさ」と父はにこにこしながら答えたが、それ以上の話はしなかった。

私がこの間抜けな質問をしてから10年後のこと。
当時、私はUCLAの映画制作研究所で1年目を終えたところだった。
突然小説家の白先勇氏から手紙が来て、もし興味があるなら、
カリフォルニア、サンタバーバラの彼の家に車で来て、
映画の脚本の手直しを手伝わないかというのだ。
その映画のストーリーは、白先勇氏の名作『勝ユ仙記』を原作にしたもので、
監督は中国の重鎮、謝晋だった。
ちょうど映画撮影を勉強していた私は、もちろん大喜びで行くと返事をした。

『勝ユ仙記』のヒロインは、名門の娘である。
小説では、父親が中国の駐米大使だと書かれている。
すべて世の悲嘆と共に話は進み、戦乱が訪れると、
駐米大使夫妻は「太平輪の事故で亡くなる」のだ。

私が白先勇氏の家に着くと、
白氏はものすごく分厚い関係資料を、参考にと私に渡した。
その中に、新聞記事の切り抜きの写真があった。
太平輪事件のときの、上海の大新聞「申報」の報道だった。
私はその切り抜きを読んだ。
記事には「太平輪の船倉には積載量をはるかにオーバーした荷物があった……
昼日中、ほかの船と衝突し、沈んだ……」とあった。

これは実に困惑させられる記事だった。「貨物の積み過ぎ」はわかる。
船会社の決定か、あるいは船のスタッフが私的に取引をして載せたのだろう。
しかし、「積み過ぎ」と「日中の衝突」はどんな関係があるのだ?
たとえ荷を積み過ぎたことで太平輪の動きが遅くなり、
さっとよけられなかったのだとしても、
それが日中、別の汽船と衝突する理由の説明にはならないではないか。
航海士が酔っ払っていたのか? 
それとも内戦がもたらした懲らしめだったのか?

「申報」の記事は、それ以上突っ込んで調査することに興味がなかったらしく、
紙面という紙面を埋め尽くす戦乱と痛ましい災害の中で、
太平輪の沈没も、ただの見出しに終わっていた。
白先勇氏は、私がどうしてこの、物語とはあまり関係のない切り抜きに
こんなに気を取られているのか知りたがった。
「なぜかというと、太平輪は私の父の会社の船だったからです」と私は答えた。

『勝ユ仙記』は後に映画になり、タイトルは「最後の貴族」と改められた。
「貴族」がどうして「最後」の、なのか?
白先勇は運命の神の合図に従って、太平輪を死刑執行の隊列に加わらせたのだ。

白先勇は「廣西王」白崇禧(中華民国の軍人)の息子で、
当然ながら典型的な「最後の貴族」だったのである。
そして私はと言えば、「最後」が行ってしまった、
さらにずっと後になって生まれた。
たとえその気があったとしても、とっくに関係はないのである。
革張りの椅子に座ってみた、とてつもなく重い望遠鏡を除いてみた、
そんなところだ。

1つの時代を、大火がすっかり焼き尽くした。
私が見たのは、あちら、こちらでくすぶっている燃え残りだ。
私の子ども時代は、いつも、このかすかにくすぶる火の中に覆われてある。


補足・生還者は少数ですがいたそうです。
それと、夜の航行だといわれているのに、昼間とあるのも不思議ですね。



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07月12日(金)
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