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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■「ポリープ」って音の響きは美味しそうなんだが/舞台『ジャン・コクトーの「声」より』
 朝から下剤飲んで、病院で内視鏡の検査。
 以前も経験があるので、詳細は省略。ケツカメラは前はかなり気持ち悪かったんだけれど、今回は体力消耗してたせいもあるのか、腹がちょっと張るくらいで苦痛はなかった。前回同様、今回もポリープ発見。カメラで見た印象は、腸壁に張り付いたマッシュルームみたいである。
 どうやら私は定期的にポリープができる体質らしい。放たっといたら腸の中ポリープだらけになるんか? ってことは、ケツカメラも定期的に突っ込んでもらわなきゃならんってことかよ。トホホ。
 大雪の中、帰宅して夜まで寝る。


 6時過ぎからお出かけ、キャナルシティ横の「ぽんぷらざホール」で、制作集団アントンクルー番外公演『ジャン・コクトーの「声」より』を見る。
 地元劇団の芝居はあまり見ない。自分とこの劇団もそうだけれど、やっぱねえ、一人よがりな人間ばっか集まっててさ、「一般の人に見せられるもの」をちゃんと作ろうってところが少ないから(ウチがカンパ制でおカネ取らないのは、練習見てるとどうしても「そんなんで芝居やってるつもりか」って思いがしてしまうから)。
 だからと言って、地元劇団の芝居は絶対見ないとまでは思わなくて、芝居の企画によっては「これは面白そうだ」と思って見に行くことがある。ハッキリ言えば80年代以降の小劇場演劇作家の作品を扱った演劇はどこの劇団が演じても大同小異でもう見たくはない。今回はジャン・コクトーが原作ということで興味を持った。

 男から別れを告げられた女。
 寂しさに耐え兼ねて、女は睡眠薬で自殺を図るが、友人マルトに助けられて一命を取り止める。そしてその翌日の深夜、女は男からの最後の電話を待っている。
 電話のベルが鳴る。しかしそれは男からのものではない。1920年代のパリでは、電話の混線は日常茶飯事であった。見知らぬ女から何度となくかかってくる電話に苛立つ女。ようやく男からのベルが鳴る。
 女は昨夜の自殺未遂を悟られないように、明るく振る舞う。しかし、男のつく嘘に気付いたとき、女もまた嘘の上に嘘を重ねるようになっていた。
 そして、再び混線する電話。電話の向こうの、名も知らぬ女は、ずっと、二人の会話を聞きつづけていたのだ……。

 びっくりしたのはやはり主人公の「女」を男性に演じさせていたことだ。これはかなりな「冒険」で、大失敗に終わることも覚悟の上の勇気ある演出だと思う。
 多少、女顔した男性なら、黙って立っているだけなら女に見えなくもないが、声を出して動いてしまうとこれはもうどうにもごまかしようがない。演技力がある俳優であっても、完全に女になることはできるものではない。ましてや、ヘタクソが演じればこれはただのオカマにしか見えないのである。美輪明宏などは、「男でも女でもないもの」として存在しているが故に圧倒的な存在感を観客に感じさせてくれるが、あの域にまで達するのはそんじょそこらの俳優には殆ど不可能に近い。
 だから主演の菊沢正憲氏、熱演ではあるのだが、首の動きや足さばきにところどころ「男」ないし「オカマ」が見えてしまうのはいかんともしがたいのである。けれど、プロの役者だってこんな演技をやれと命令されたら「やれるかい」と逃げたくなる人も多かろうから、果敢に挑戦されただけでも素晴らしいし、少なくとも1時間は舞台を持たせることはできたのだから、決してひどい出来ではない。女には見えないからこそ、観客は自らの想像力を駆使して「見立て」ようとする。その想像力を阻むほどにヘタならば問題なのだが、そこまでのことはなかったので、充分演劇として成立していると言えるだろう。元気がありすぎて女の孤独までは感じられなかったのが残念だが。衣裳もユニセックスなブラウスにスラックスで、へたにスカートなどを履かせて「女」を強調しなかったのもよかった。


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02月01日(火)
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