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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■大掃除大パーティ/『かりん』2・3巻
 早朝3時、仕事から帰ってきたしげ、舞台中継『ミッドサマー・キャロル』を見たいというので、録画したDVDをかける。けど、今日はよしひと嬢のお宅に焼香に行く予定であるし、そのあと何やらパーティもするとか言ってるのに、寝る時間が全くなくなってしまうが大丈夫なのだろうか。
 私の方は早々に落ちて、9時過ぎまで眠る。その間にしげは出かけて行ったようだった。……部屋の片付け全然済んでないんだけど、どうするつもりなんだよ。


 昨日は雨時々曇りで、玄武亀代と竜宮亀太郎に日向ぼっこをさせてあげられなかったので、今日はベランダに出してやる。
 食欲旺盛な玄武に食餌を取られて、竜宮の方が食が細くなってしまっていたので、一時期、二人を別居させていたのだが、それまで与えていたレプトミン(ビタミン・ミネラルフーズ)をガマルス(ヨコエビ)に変えたら、竜宮も一所懸命食べるようになった。大きさはやっぱり玄武の方がひと回り以上もデカいのだが、竜宮がイジメられている様子はないようである。
 その間に風呂場で水槽を洗う。浄水ポンプのおかげで水自体は澄んでいるように見えるが、洗うとやはりかなりカメ臭い。週一のこの水槽洗いが習慣になっているが、二人がもっとデカくなって水槽も大きいのに買い替えないといけなくなったら、この作業、かなりひと苦労になりそうである。


 休日のうちに未見のDVDを片付けようと、映画『切腹』を見る。
 映画自体は随分前に見ているのだが、これはずっとDVD化を待っていた一本だった。なんとなれば個人的にちょっと思い出があるのである。
 生前の母はこの『切腹』について、「見てられないくらい残酷!」と、まるで怪談話をするかのように身振り手ぶりを交えて、聞かせてくれたものだった。それはもちろん、石浜朗が竹光で自分の腹をかっさばくシーンの再現なのであるが、普段は豪胆で肝っ玉かあさんな母が「竹光だから腹を刺しても切れなくて、もう何度も何度も突き刺してね。背筋がぞっとして『早く映画が終われ!』って思っとったよ」なんて眉を顰めて言うものだから、それはいったいどれほどオソロシイ映画なのかと、小学生の私は見てもいないうちからそのグロテスクな描写を想像して怖れおののいていたのだ。けれどあまりに「残酷さ」ばかりを強調するものだから、詰まるところ映画として面白かったのかどうか、母の話だけではよくわからなかった。
 実際にこの映画を見ることができたのは20代に入ってからだった。監督が小林正樹だから、映画の底流にはどうしたって社会主義思想、反権力と言ったものが流れているのだが、殺陣を初めとした描写そのものに迫力があるので、そのあたりのイデオロギーがさほど鼻につかない。例の竹光での切腹シーンであるが、今の目で見るとそんなに「残酷」という印象はしない。けれどそれは私の方が数多の残酷描写に慣れきっているためであって、40年前にはこれは充分、目を背けたくなるほどの悲惨なシーンとして大多数の観客には受け止められていたのだろう。母の受けた衝撃も、やはり初見のインパクトの強さゆえだと思われる。
 シャワー中の惨殺シーンで観客に失神者も出たというヒッチコックの『サイコ』の公開が1960年、時代劇にそのリアル描写でショックを与えた黒澤明の『用心棒』が1961年、そして血飛沫の決闘を描いた続編『椿三十郎』が1962年。そしてこれまた大ブームを起こしたヤコペッティの『世界残酷物語』が同じ1962年。『切腹』の公開も1962年だから、まさしくこの映画は「残酷描写ブーム」の流れの上にある。けれど、もともとリアル志向の強かった小林監督にとってはこのブームは渡りに船だったのではないか。東映時代劇がただ残酷であればいいと、不必要なまでのグロ描写を持ちこんで失敗作を量産していたのに対し、『切腹』の残酷描写は物語が求めた必然である。そういう流れを意識せずに見ることのできる現代の方が、この映画を真に評価するのには適しているのではなかろうか。

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09月19日(日)
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