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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■演劇とマンガと映画と。
 なんだか一日、「もわっ」とした日。
 風も涼しいし、気温も真夏日に比べればそう高くはないのだけれど、何だか気色が悪いのである。かと言って湿度がすごく高いというわけでもない。汗がかけそうでかけない、全身の毛穴が詰まっているような、そんな気持ちの悪さだ。具合が悪いとまではいかないのだが、確実に頭痛はしてくる。同僚もみんなダルそうで、元気なのは、飼ってる亀くらいのものである。
 今朝もしげは体調を崩していて、車で送ってはもらえなかったのだが、この気候のせいもあるかもしれない。クーラーをつけてないと気持ちが悪いし、つけたらつけたでしげには寒いのである。
 私も夕べは熟睡できず、何度か寝ては起きを繰り返していて、朝方、頭痛と吐き気がしていたのだが、これくらいでは仕事は休めない。まあ、動いているうちに何とかなるだろうと高を括っていたが、結局、一日頭痛に悩まされた。ケイレンが起きないときは頭痛なんて、難儀なことである。

 しげ、帰りはなんとか迎えに来る。帰り道にどこかに寄る元気はないので、家に直帰。晩飯は買い置きの肉でまた牛丼。けれど、昨日はあとで作ったほうが「味が落ちた」とか言われたので、今度はモヤシ以外にも千切り大根やニンジン、菜っ葉を炒めて混ぜて、昨日よりは豪華にしてみる。とりあえず山盛り飯をコメツブ一つ残さずにペロリと平らげたから、不味くはなかったのだろう。

 食事を終えて、先日WOWOWで放送された舞台『カメレオンズ・リップ』を見始めたのだが、やはりかなりくたびれていたのだろう、まだ宵の口だというのに、意識がふっと遠のいて落ちてしまい、半分も見られなかった。

 寝ちゃったせいで、今日読んだ本は少ない。鳥飼玖美子『歴史をかえた誤訳』に、雑誌『ダ・ヴィンチ』7月号。明日はもちょっと本を読もう。


 雑誌『國文学』七月号の『演劇回廊』で、大笹吉雄さんが、新国立劇場で4月に公演されたアリエル・ドーフマン作『THE OTHER SIDE/線のむこう側』について、「画期的」と批評している。何が画期的かと言うと、この芝居、世界的に有名なチリの劇作家であるドーフマンの、既成の作品をコヤにかけたわけではなく、わざわざこの「新国立劇場」のために依頼し、演じられたピカピカの「新作」だということなのだ。
 これまでにも日本人が海外で演劇公演を行った例はあるが、海外の作家に新作を書かせ、日本を演劇情報の発信地としたのは、これが初めてだとか。しかも演出は韓国のソン・ジンチェク。このインターナショナルな布陣を組んだのが芸術監督の栗山民也である。
 「画期的」と言われても、役者にしてみれば、新作だろうが旧作だろうが、演じる点では変わりがない。観客だって、出会う芝居が外国の新作か本邦の旧作か、それが第一の基準になって芝居を見に行っているわけではなかろう。その「新しさ」に専ら反応するのは、ヘタすりゃ権威主義的な演劇スノッブだけ、ということにだってなりかねない。もちろん、この試みに演劇シーンの拡大という意義を見出さないわけではないが、それが一度きりで終わってしまえば結局はたいした意味はない、ということになってしまう。「国境を超える」とはどういうことなのか、戯曲、演技、演出、その一つ一つに果たして民族を越えた普遍性がありえるのか、その視点が常に意識されていないと、「やってみました」という事実しか残らない。当たり前のことだけれども、「要は中身」なのである。
 ――長い戦争状態にあると某国。国境近くの小屋で、老夫婦のアトム(品川徹)とレヴァーナ(岸田今日子)は、戦死者の身元確認作業をしている。若い男の死体を見るたびに失踪した息子(千葉哲也)ではと探るレヴァーナ。そして、待ち望んだ停戦の知らせが流れるが、国境警備隊が小屋を二つに分断し新たな国境を作ると言い出して……。というのが『線の向こう側』のあらすじだ。どこの国ともしれない場所を設定したのは、この国家と人間の関係の不条理が、まさしく「どこの国でもありえること」という普遍性を持って観客に訴えかけられているからにほかならない。

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06月16日(水)
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