ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491680hit]

■アメリカの真っ直ぐくん。
 『ボウリング・フォー・コロンバイン』のマイケル・ムーア監督の新作ドキュメンタリー映画『華氏911』が、ブッシュ政権を厳しく批判する内容のために、配給元のミラマックスの親会社であるウォルト・ディズニー社から全米配給を拒否されたとか。
 ディズニー社は「今回の新作は政治、宗教的に中立なディズニー社にそぐわないし、配給しない旨は1年前から伝えてあった」と主張している。どうもこの答弁で腑に落ちないのは2点あって、そもそもこの監督に映画撮らせりゃ、「政治的なもの」になると分かりきっているだろうに、なぜ製作自体を許したのか、ということだ。「まさかウチの下でまで政治映画は撮るまい」という甘い判断だったのか。お家騒動の喧しいディズニーのことだから、ゴタゴタの間になぜか企画が通ってしまった、というアホな事態も考えられなくもないが。
 もう一つはもちろん、「1年前に配給拒否の通達はしていた」というディズニー社の主張と、「こないだ通達されたばかり」というムーア監督の主張が食い違っている点である。よくわからないが、この映画の製作費はミラマックスから出ているのではないのか。ディズニーは「配給しない」と一年も前に決めていた映画の製作費をミラマックスが出し続けていることをずっと看過していたというのか。なんだかディズニー社の主張の方が私にはウソっぽく聞こえるのだが、向こうの映画製作のシステムがどうなっているかはよく知らないので、断定はしにくい。もっとも、この問題は今になって表面化したことではあっても、製作当初から波瀾を呼ぶことが予想された作品になることだけは間違いなかったようである。
 ムーア監督は「ディズニーは多数のテーマパークを有するフロリダ州の知事をブッシュ大統領の弟が務めているため、この映画を配給することにより減税措置が取り消されることを恐れたのではないか」と分析しているとのことだが、そこまで「政治的」に判断するのはいささか自己宣伝が過ぎているようであまり好ましく感じられない。概してこの監督のパフォーマンスは一人悦に入っている感が強くて、マジメに見ていくとどうも居心地の悪さというか、苦虫を噛み潰したような気分にさせられることも多いのである。
 『ボウリング・フォー・コロンバイン』でもムーア監督はKマートに銃弾を売らないように車椅子の被害者を連れて行ったり、チャールトン・ヘストンの自宅に銃で死んだ少女の写真をワザと置いていったりしている。映画造りのための演出として、これを一概に間違いだとは言えないだろう。銃に対するムーア監督の怒りは確かにこちらに伝わってはくるからだ。しかし同時に伝わってくるのは、監督の、例のイラクの人質にも通じるような純粋さと正義感の押し付け、反論を一切許さないように見える意固地さ、そしてそれらを全て含んだ「自己宣伝臭さ」である。そんなヨコシマな気持ちは自分にはない、とムーア監督は主張するかもしれないし、実際その通りなのかもしれないが、問題はそれが正しいか正しくないかではなく、「そう見える」ということなのである。たとえムーア監督ならずとも、こういう反銃社会や反戦といったテーマの映画は、殆どが「演出過剰」に陥り、ある作品は鬱陶しく、ある作品は滑稽にしか見えなくなることが多い。最近の例では『CASSHERN』がそうだったね。「何かを伝えよう」というメッセージ性そのものが、どうしても説教臭くなり、映像表現においては「何も伝えられない」どころか「反発」さえ生む「枷」となってしまうのだ。

[5]続きを読む

05月06日(木)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る