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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■記録の魅力/『ロケットマン』6巻(加藤元浩)

 森光子さん主演の舞台、『放浪記』が、昨21日に昭和36年の初演以来、通算1600回の上演記録を達成した様子が朝のニュースで流れている。
 こないだ初日に見に行ったときには、最後の舞台挨拶は森さん一人が正座して手を広げるだけだったのだけれども、昨日は博多座に東山紀之、堂本光一、滝沢秀明も駆けつけて、森さんの偉業達成を祝福した模様。
 舞台の様子も中継されてたけれども、やっぱりカフェで森さんが踊ったりするシーンや、木賃宿ででんぐり返るシーンだったりする。「83歳とは思えない」と視聴者に思わせる演出だということはわかるんだけれども、森さんの演技力が発揮されるのはどっちかというと静かなシーンの方に多い。情念が全身から沸き立って来るような、それでいて決して下品ではない「林芙美子」としての仕草や表情をしっかり捉えてくれなきゃ、あの舞台の本質を紹介したことにはならんと思う。ニュース番組のディレクターも質がどんどん落ちてきてるんである。

 私は林芙美子の小説は『放浪記』しか読んでいない(『浮雲』は映画の方しか見ていない)。つか、今は本屋の文庫の棚に並んでるのがそれだけだから、図書館とかで全集などを探さない限りは読みようもないのである。流行作家の運命というものを考えると、そぞろ寂しい限りだが、林芙美子自身、自分が忘れられることを痛感していたのではなかったか。
 「『放浪記』だけは残ると思う」というのは本人の述懐だが、言い返れば他の作品は全て忘れられてしまうかもと感じていたのだろう。別に他の作品がつまらないということではない。小説や映画は、どうしたってその時代と「寝る」運命にある。風俗習慣の違いを越えて読み継がれ語り継がれる作品など、厳密にはありえない。『源氏物語』ですら、本居宣長が「再発見」するまでは「封印」に近い状態にあったことを想起して頂きたい。
 森さんの林芙美子は、最後に「書かなきゃ、林芙美子は結局『放浪記』だけの作家だったって言われるのよ」と吐き捨てるように呟く。それだけでも充分じゃないか、というのは、抗い難い人間の業からあえて眼を背けている者のタワゴトであろう。

 福田清人編・遠藤充彦著『人と作品15 林芙美子』(清水書院/センチュリーブックス・714円)」は、現在比較的入手しやすい彼女の評伝だが、シリーズものの一冊で紙数に縛りがあるために、その懊悩の人生の全てを描ききっているとは言い難い。しかしそれでも、舞台『放浪記』と比較しながら読めば、舞台の作者である菊田一夫が「虚構」を通じていかに林芙美子の心の「実像」を浮かびあがらせようとしたかが見えてくる。
 舞台では、実在の人物そのままの名前で登場するのは林芙美子と菊田一夫の二人しかいない。芙美子の母親キクですら舞台版では「きし」となっており、養父沢井喜三郎も「謙作」とその名を改められている。しかし物語自体は原作の『放浪記』をほぼそのままになぞっており、例えば、愛の遍歴に疲れて初恋の人にすがりに尾道に逃避するエピソードもまた、『放浪記』第二部の冒頭で語られている実話である(ただし、史実の芙美子が帰郷したのは大正十三年のことだが、舞台では昭和二年に“ズラシ”ている)。
 だが、この舞台のクライマックスである、芙美子が自分の『放浪記』の原稿を雑誌に掲載させるために、親友兼ライバル・日夏京子の小説を一時隠匿した、という話は、『放浪記』にも評伝本にも書かれてはいない。史実においては、『放浪記』は長く芙美子の篋底に埋もれてはいたが、三上於菟吉、長谷川時雨夫妻によって『女人芸術』に連載され、それが改造社の記者の眼に止まり、出版を果たしている。芙美子の栄光への執着心を誇張して描いたようなこのエピソードは、恐らくは菊田一夫の創作で、事実ではないと思われる。あるいはそれに近い出来事が少しくらいはあったのかもしれないが、菊田一夫は、林芙美子が「そういう人であった」ことをあえて描きながら、決してそれを否定的に見るのではなく、運命に抗おうとする彼女の「生」を半ば称えるようにして暖かく見つめている。

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09月22日(月)
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