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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■ボンちゃんって呼び名も懐かしい/ドラマ『血脈』/『×××HOLIC』1巻(CLAMP)
鬱病で芸能活動を休止していた高島忠夫さんが元気に復帰宣言。
お年がお年だけに自殺の危険もあったと思われる。以前、知り合いが実際に鬱病に罹っちゃったことがあるが、親や恋人がいかに説得しても、自室の隅に引きこもって、顔を上げようともしなかった。こちらができたことと言えば、医者に連れていくように奨めることだけ。それとても本人にとっては厄介者のように扱われていると思いこまれるのではないかと心配になった。激励の言葉がかえって本人を追いつめてしまうくらいに、心は繊細になってしまっているのだ。
高島さんが人前に出られるようになるまで約5年。この間のご家族の苦悩は想像するに余りある。自分たちの方が鬱病になってしまう危険な状況だってあったのではないか。それを堪えた。今の政伸さんの笑顔は、心からの笑顔だろう。
願わくは、この5年間の出来事を「ドラマにしよう」なんて安易なテレビ屋が現れませんように。
『キネマ旬報』9月下旬号、タイムリーに『座頭市』特集である。
監督インタビューで北野武が「市は何の愛情にも絡んでいない」と発言しているのを読んで、これも北野監督の「照れ」かな、と苦笑した。ともかく今回の座頭市は寡黙である。「感情を言葉にすることの恥ずかしさ」というのは感情表現の過多な人にはなかなか理解してもらえないのだが、市が殆ど口を利かずに過ごすのは、感情がないからではない。それを口にすればウソになってしまうからだ。
「本当は市はとても優しい心の持ち主なんだよ」。
ほら、ウソっぽいでしょう(^o^)。
言葉が意志や感情を伝達できる最良の手段だなどと思いあがってはいけない。言葉は本人の意志の十分の一、ヘタをしたら殆ど伝えられないと言っても間違いではないのだ。何かを伝えようとすればするほど、言葉が上滑りになっていくという経験をした人は多いだろう。結局は言葉もひっくるめて、「その人」を許容する覚悟があるかどうかでしか心と心の絆は生まれないのである。
じゃあ、ビートたけしが日頃あんなに饒舌なのはなぜなんだと文句をつけるワカランチンもいるだろうが、だから「照れ屋さん」は「韜晦」するんですよ。
こういう説明も野暮の極みだし、仮にたけしさんがこの文を読んだとしたら苦笑するだけだろうが、言葉を丸のままストレートにしか受けとめられない連中が世の中に横行してるから。だもんでそういう連中にはまさしくストレートに「馬鹿」って言ってやるんですがね。もちろんこれとて意味は伝わらない(^_^;)。
同じ号では『踊る大捜査線2』の評論家&読者を交えての批評も特集されているのだけれど、絶賛から完全否定まで、実に幅広い。
こうも意見がかけ離れてしまうと、「その映画って面白いのかつまらないのかどっちなの?」と未見の方は迷われると思うが、見る人によって感想が違ってくるのは当然なので、「自分の目で確かめてごらんなさい」としか言えませんねえ。
よく「主観の相違」と言ってこの意見の説明をしたがる人は多いが、じゃあその「主観」ってのは何? ってことが余り考えられていないから、説明のための言葉でなく、相手を拒絶する言葉にしか作用していないのはよろしくないと思う。
もう少し具体的に言えば、「主観」ってのは一人一人の背負っている「文化」の違いなんであって、それが映画の「何に注目するか」という違いにまで発展するのである。その結果、感想が変わるのは当たり前の話。
単純な例を挙げて説明するなら、日本人が洋画を見るとき、もしも吹き替えや字幕がなかったら、内容が掴めずにつまらなく感じるでしょう。でもそれは映画の出来が悪いからじゃないことは自明の理。じゃあ、外国語が分らない方が悪いのかって言うとそうでもなくて、そういう「文化」を持たないで生きてきたのだから、これは仕方がないことなのです。つまり一人一人の持っている「知識」や「教養」は常に偏在しているので、議論をする場合にはそれを確認した上でなければできないことなのである。
議論で意見が衝突している状態というのは、お互いに自分の「見ているもの」を相手が「見ていず」、自分の「見ているもの」を相手に「見ろ」と強要している形になってるのだから、そりゃケンカになるのもムベなるかな。
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09月08日(月)
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