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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■すっ飛ばし日記/親を崇める子供たち
一日楽な仕事。これが毎日だと嬉しいんだけどまあムリかな。
アニメ『キノの旅』、「コロシアム」前編。
ついにこれが来たか。折り返し点だから、持ってくるよな。陸の声が大塚芳忠さんだったのでちょっと笑っちゃったけど。いや、ミラウー・キャオのイメージが強いもので。
『言語』6月号のエッセイで、言語人類学者の井上京子さんが、学生たちの修士論文の冒頭で、指導教員らへの謝辞に並べて、「両親に感謝申し上げます」と書かれたものが1996年以降に増えた、ということを書かれている。
大学の卒論になんで親への謝辞を書くのかも疑問だが、なにより他者に対して語る場合、身内に敬語は使わないという「常識」が崩れていることに驚く。
そこに挙げられている親への敬語の例は、他にも、「大学まで進学させていただいたうえに」「私を見守ってくださった両親」「勉学の機会を与えてくださいました両親」「この放蕩息子の面倒を見てくださった」「毎月の仕送りを絶やさず送って下さった」「四年間大学を卒業させていただいた」と、私の感覚からすれば、「お前ら百姓か」と言いたくなるくらい、親に対して卑下しまくっているのである。
しかし、言語学をかじったことのあるかたなら、「ポライトネス理論」はご存知であろう。敬語は他人との心的距離を表している、というアレだ。即ち、「敬語を使っている」時点で、親は本人にとって、「他人」のカテゴリーの中に押しやられてしまっているのである。決して、本気で尊敬され愛されているわけではない。
で、この「1996年以来」という記述が、私にはどうにも気にかかってならないのである。その前年、1995年がどんな年であったか。
阪神大震災。地下鉄サリン事件。それもそうだが、ハッキリ言ってしまおう。1995年から1996年は、『新世紀エヴァンゲリオン』の年である。まあ、あのアニメを語る言葉は未だに錯綜し続けている感があるが、単純に、「思春期」の少年たちが主人公の碇シンジに感情移入した場合、一番「敵」として認識されるキャラは誰であるかを考えてみよう。答えはもちろん父親である碇ゲンドウということになる。愛しても愛されてもいない父親に「誉められたいから」とすり寄っていくシンジ君の気持ち悪さは、岸田秀じゃないが、レイプされたってのに意外と気持ちよかったもんだから、そのレイプした相手に媚を売り始める女のようであるが、この卒論で親に感謝してる連中の言葉にもそういう気持ち悪さが見え隠れしてないか。
考えてみたら、私の親は、滅多なことで私を誉めたことはない。私は私で親の悪口ばかりを人前で言っている。内輪誉めのみっともなさってものは、肌身に染みて感じていたのである。別に我々親子が特殊だったわけではなくて、それは昔はホントにフツーだったのである。
それがこうも崩れているというのは、やっぱりみんな、ふと気づいてしまったからではないか。親と子に、もともと絆なんてものはなかったんだと。
「進学させてもらったり」「仕送りしてもらったり」「温かく見守ってくださったり」、それは親の愛情なのか? 自分の気持ちを「感謝の言葉」として表し、確認せねばならないということは、それくらい、親子を結ぶ糸は細く、ほつれてしまっているということなのではないか?
切れた糸を懸命に手繰り寄せようとする哀れな努力を学生たちが始めたのは、やっぱりあのトラウマ刺激アニメの影響があるんじゃないかと思うんだけど、これも私の妄想かなあ。
05月20日(火)
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