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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■なっまえっ、そっれっはっ、もっえっるっ、いっのぉちっ/『ガゥガゥわ−太』1巻(梅川和実)ほか
 新宮様の名前が敬宮愛子(としのみや・あいこ)に決まったそうな。
 常識のないやつはまた、「敬宮が名字で愛子が名前なのかな」とか、「え? 天皇家ってみんな名字が違うの?」とか言い出したりするんだろうな。
 当たり前の話だが、天皇家には名字がない。
 名字はあくまで天皇家が臣下に与えるもので、名字のことを「姓」とか「氏」とか言ったりするのは、まあ、神主さんが氏子を持ってるようなものだ。戦時中の「天皇の赤子(せきし)」って意識もこの辺から来てるわけやね。
 だから、未だに日本には差別が残ってると言う人も多い。「天皇制をなくせ」というわけだが、となると、天皇に「名字」を与えることになるのか? でもそれじゃ本当の意味での差別の撤廃にはならないよな。「名字」そのものが天皇を中心とした「家長制」の象徴なわけだから。
 だから、本気で差別をなくそうと思ったら、名字そのものをなくしちゃわなきゃならないのである。ただの「太郎」と「花子」になるわけだ。それじゃ何百人もの「太郎さん」「花子さん」がいて区別がつかない、と仰るなら、名字の代わりにセカンドネームをつければよろしい。「太郎=次郎」とか「花子=雪子」とか。
 え? 二人いるみたいで漫才コンビみたいだ? なら、「家」という継続性を無視した名字をつけていいってことにしたらどうだ。つまり親が子供に名字と名前の両方をつけるわけ。
 「私は山田太郎だったけれど息子は里中悟にしよう」とか。
 ……個別認識ができればいいだけなら、これで問題は生じないでしょう。

 それにもかかわらず、「差別反対!」を唱える人たちが「名字の撤廃」を唱えないのは、本気で差別をなくそうなんてことは考えてないからなんだね。
 「やはり家族の絆は必要だ」とか、「私も親の名前を継ぎたい」とか、名字を撤廃しないリクツはいろいろつけようとするけどさ、でもそれは結局「差別はなくせない」と言ってるのと同義なんだよ?
 名字が違ったくらいで壊れるような絆なら捨てっちまえ。
 名字を継ぎたいってことは結局自立したくないってことだ。
 たとえ具体的に親の七光りを期待してるわけじゃなくても、既成のものに依存したがる心が「階級」というシステムを温存してきたのだという認識があまりになさ過ぎないか。
 本気で差別をなくそうと言いたいんだったら、そこまで考えて主張しろ。

 もちろん、私は「名字をなくせ」なんて言おうとは思わない。
 もう、はっきり言っちゃうけど、本当のところ、ある程度の差別は必要だと思ってるからだ。
 私だけではない。
 全ての人がだ。
 差別をなくせと言ってる人も含めて、実は全ての人々が、意識的ないしは無意識的に差別を必要としている。
 それは、「誰かを差別すること」によってしか、人は自己のアイデンティティを確率できないからだ。
 「自分が自分であろうとすること」それは結局「他人は自分と違うこと」を認めることに他ならない。
 「アイツとオレは違う」……この判断の中に、自分の優越性を持ちこまずにいられる人間がどれだけいるだろうか。

 こういうこと書くとまた「差別主義者」とか言われちゃうから、また念のため付け加えとかなきゃいけないんだけどね、私ゃ別に「ユダヤ人虐殺」を肯定したりする気はサラサラないからね。
 「人間はいや、生命は基本的に他者を差別することでしか生きられない」って根本的なことを言いたいわけ。その前提を無視した差別撤廃論は、全て机上の空論にしかならないって言いたいだけなの。
 どんなに「差別すまい」と思ったって、自分を守るために他者をないがしろにしてしまうことは誰にだってある。自分が差別をしてしまうことの覚悟と、自分が差別されたときに他者を許す心との、両方を持とうとする意志のない人間に、「差別」について語ってほしくなんかないのだ、私は。

 まあ、それは余談であって、今回の命名でビックリしちゃったのは、出典が「孟子」からとは言え、「愛子」の読みが「あいこ」だったことなんだね。

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12月07日(金)
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