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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■一日本しか読んでません/『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』(長谷川町子)ほか
 今朝の身長40メートル、体重1万5千トン。
 つまんないジョークですみません。ここんとこダイエット状況にあまりにも変化がないもので、だんだんこっちもつまんなくなっているのである。
 便秘が続いていて85.4キロってことはもうチョイ痩せてるとは思うんだけど。
 こうなったら、巷に溢れるダイエット法をいろいろ試してみるべきかなあ。


 先日大塚英志さんの著書を読んで以来、昭和40年代の連合赤軍事件、日本赤軍事件に興味が沸いて、関連本をいろいろ読み漁っている。

 『一億人の昭和史』で、ようやく森恒夫の写真を見られたが、ちょっとヤクザな飯場のおっちゃん、という感じで、実は内心、岸田森をイメージしていた私は肩透かしを食らわされた。何となく「光クラブ」事件のような挫折のエリートってイメージ持ってたんだけど、根拠はなかったな。
 共産主義革命だの世界同時革命だの銃による殲滅戦だの、当時のムードに飲まれたとは言え、殆ど妄想の域に達している言動をとっていたんだから、知恵らしい知恵なんか持っちゃいないのは当然だったんだが、当時、子供心にも「革命」という言葉に理想的な響きを感じていた私は、たとえそれが残虐なリンチ事件を起こした犯人であったとしても、冷酷で狂気を孕んだ知性派であってほしい、と思っていたのだろう。
 私も危険なフィクションの中に生きてたんだなあ。

 『文藝春秋の昭和史』、重信房子の父、重信末夫氏の、娘を弁明した文が収録されている。
 このとっつぁま、井上日召の血盟団事件(団琢磨が殺されたヤツね)に参加して逮捕された経験のある人だったんだな。極右の娘が極左ってのも面白い、というかある意味当たり前過ぎる展開かな。
 「あたしはとうちゃんみたいにはならないわよ!」ってか?
 にもかかわらずこのとうちゃん、実に悪びれず堂々と娘のテロリズムを弁護しており、ある意味で清々しくさえある。
 家庭の貧困ゆえに娘を進学させられなかったことが娘が共闘して行く契機になった、と言っているが、でもそれって結局は「みんなビンボが悪いんや」と責任転嫁してるだけじゃん。ガキか。
 マスコミが自分たちの図式に合わせて事件を捻じ曲げて行くのは今に始まったこっちゃない。娘を「女の魅力でテロリストたちを操る毒婦」のように喧伝すしていることに対して、憤りを露わにしているが、それで娘のやった罪が相殺される訳じゃないんだがなあ。
 
 安岡章太郎『私の戦後史V』、リンチ殺人事件が戦時中の軍隊のシゴキによく似ている、としながらも、「殴り方のノウハウも知らない」と、なんだか「近頃の子供は集団で行動する機会が減ったために加減を知らなくなった」みたいな安っぽい論法を持ち出している。作家だから立派な分析ができるなんて思っちゃうのは権威主義的な発想なのだろうな。
 犯人たちが被害者たちについて「死ぬとは思わなかった」なんて言ってるのは、もちろんウソで、当然被害者を殺すつもりであったことは間違いない。
 だがここで興味深いのは、今言ったことと矛盾するが、この「殺すつもりはなかった」というのが、彼らの心理においてはウソではなかったのかもしれない、という可能性もあるからである。
 ここで「総括」という言葉がクローズアップされてくる。これが現実の「死」から意識を乖離させるために編み出された言葉だとしたらどうだろうか。
 と言うか、まさしくそれは事実なのであって、「総括」だからこそ彼らは仲間を死に至らしめることができたのである。「殺人」には抵抗あっても「死刑」は平気ってなもんだよねえ。
 彼らの悲劇は、そういったカリモノの革命思想に操られたまま、自分たちが洗脳されていることにも気付かず、自らの言葉を持とうとしなかった報いである。その意味で言えばまさしく戦時中の軍国思想と全く同じだ。
 ……そう言えばオウムも「ポア」って言ってたよな。言霊は現代でも生きているのだなあ。

 永田洋子『私、生きてます』を読んでも、その印象を新たにした。

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06月05日(火)
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