ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491753hit]
■復活日記(笑)1・加筆もあるでよ/村上春樹『約束された場所で』ほか
私たちはまず考えなければならない。オウムの信者がみな実行犯たちと一緒くたにされ、社会から排除されていく過程、それは例えば我々が日本人であるということだけでアジア諸国から旧悪の後継者と見なされている状況とよく似てはいないだろうか。
彼らが「加害者」であるなら、我々も「加害者」である可能性はある。いろんな意味で、確実に。
村上氏が彼らを我々の「合わせ鏡」と呼んだのは恐らく正しい。
あの上九一色村での「オウムは出て行け」運動は、全国各地のオウムの支部のある街で行われていた。そればかりか、信者個人が住むアパートすら、追い出されるという状況である。
でもあのハチマキをしていたデモの人々、ウチとソトを反転させただけの「オウム」ではなかったか。
人間はいつだって、自分の憎むべき対象、迫害して構わない対象を探している。公明正大に差別できる対象、それがオウムであった。「いじめ」が決してなくならないのは、イジメをする側にとってはそれが「正当」な行為だからだ。
オウムが骨抜きになって、サリンを作る力もない。なのに我々はオウムをあくまで「敵」と見なす。いや、彼らが「弱い」からこそ、「出ていけ」と叫べたのではないか。
その弱者への憎悪、少数者への迫害の心が、もともとオウムを生み出してきた土壌であったのだ。あの「出ていけ」コールは、彼ら自身の心が新しい「オウムの子ら」を世の中に生み出していく一つの過程にほかならないのだ。
マンガ、しかくの『爺さんと僕の事件帖』3巻。
小学校を舞台にしていながら、『名探偵コナン』のように、幼稚な「少年探偵団ごっこ」が出て来ないのが感心。
数あるミステリマンガの中で本作が頭一つ抜きん出ているのは、子供たちを生身の人として描こうとしているからだろう。夢見る少女とか乱暴なガキ大将とか生意気なチビとか(『コナン』って、『ドラえもん』ののび太の代わりにコナンをぶちこんだだけだもんなあ)、ステロタイプなキャラクターはこのマンガにおいては皆無。
これは作者が「人を見る」「人を知る」ための有効な手段として「ミステリ」という形式を考えているからだろう。
多分、この作者は「こういうトリックを考えて、それに合わせて人物を配置して」という作品作りはしていない。「こういう動機を持つ人間はどんな事件を起こすか」、あくまで「人」を中心にストーリーを作っているのではないだろうか。
そして小さな探偵たちは、その過程を逆に辿って、事件の真相に到着する。
『きりしとほろ変容伝』。
小学校の飼育小屋のウサギたちを殺していく犯人は誰か。
この犯人の動機は、多分古今の小説にも類例がない(少なくとも乱歩の『類別トリック集成』のパターンには当てはまらない)。従来のミステリなら、このような動機を設定することは否定されていたことだろう。しかし、なぜ否定されてきたのか、そして、現代においてはこのような動機もありえるのだと考えた時、このシリーズの本質が見えてくると思うのである。
午後9時就寝。
窓の外、真正面から福岡タワーのネオンが見える。
一瞬、逆三角形に見えるけど、よく見ると辺の途中が小さく凹んでいる。
……あれって、三つ葉?
それとも「フクオカ」の「フ」の字が三つ?
実は何の意味もないかもなあと思いながら気になって眠れないのであった(眠れよ)。
08月06日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る