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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■「嫌韓」に狂わされた女/『幻想に生きる親子たち』(岸田秀)
『ホテル・ルワンダ』は前売券を買っているので、近日中に見に行くつもりである。件のブログ主のような馬鹿意見よりはマシな見方ができるんじゃないかとは思っている。
『幻想に生きる親子たち』(岸田秀/文春文庫)。
吉本隆明の『共同幻想論』は、我々よりちょっと上の世代くらいまでは必読書だった。私の学生のころにも文庫で改版が出たりしていて、友人もたいていは読んでいた。でもって、読んでた学生の大半がこれに「かぶれ」てしまったのは、世の中のコトワリをこの「共同幻想」という言葉が実に適切に言い表していたからである。目から鱗、と言うよりは、うすうす感じていたことを明確に言葉にしてくれた嬉しさ、「共感」を感じたと言う方が近いだろう。
岸田さんの唱える「唯幻論」は、この「共同幻想」をさらに分かりやすく、しかもその根拠を「人間の本能が壊れているからだ」と説明してくれたことで、なんかもう、「ああ、世の中のことを理解するのにこれ以上の説明はもう要らないや」と思わせてくれた。今風に言えば、悩める青年たちへの「癒し効果」があったのだと言ってもいいかもしれない。何しろこの「唯幻論」を使えば、この世の謎をたいてい「理解」できてしまうのである。
親子関係の崩壊、あるいは学級崩壊の原因は、「何のために子を育てるのか」「何のために教育が必要なのか」という価値観の喪失、即ち、共同幻想を持ち得なくなっていることが原因である、という指摘が、「ああ、なるほどそうだよなあ」と、「理解」できてしまうのである。厄介なのはこれからで、その「真実」が理解できてしまうのと同時に、この問題を解決する方法もない、ということも「理解」できてしまうことである。
大家族制が社会を構成する単位として機能していた時には、親が子を育てるのは必然であって、理由を考える必要はなかった。けれども、現代、価値観を共有できない親は子供に自分のエゴイズムを押し付ける形でしか子育てができなくなっていると岸田さんは説く。それができなければ子は邪魔なだけだから、放任するか適当に育てるか殺すしかない。子を虐待する親と放任する親との間に、実はたいした差はないのだ、ということになる。
「私たち親子の間にはちゃんと愛情で結ばれた、心の絆があるんです」と仰る親御さん、またそれを信じているお子さんも世の中にはおられるだろう。もちろんそれとて「二人の間に共同幻想が存在している」だけに過ぎないので、何かのきっかけでその幻想が壊れてしまう可能性は大なのだ。「今は幸せ」なのはただの「偶然」なのである。
「そんな身もフタもないことを」と眉を顰める方もおられようが、これは決して「絶望に至る道」ではない。どちらかと言えば「初めから夢や希望を持たなければ、裏切られるショックも少なくてすむ」問題に近いのである。夢や理想を持つな、という言い方が「キツイ」のであれば、「あまり高望みはしないで自分の背丈に合った適度な夢を見ようよ」と言ってあげたほうがいいだろうか。
親は子供が立派な人間になることを期待したって仕方がない。子供はなるようにしかならないと思うことである。「躾をするな」ということではない。親は結局、躾をすることしかできないが、躾の効果が上がらなかったとしても、それは「運命」だと覚悟するしかないということである。もし万が一、子供が立派に育ったとしてもやはりそれが「自分の躾のおかげ」だなどとは思わないことだ。それも結局は偶然に過ぎない。
子がマトモに育っても、育たなくても、そう思えば「救い」にはなると思うけどどうかね。
02月27日(月)
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