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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■無責任賛歌事始/『エマ』6巻(森薫)
しかし、たとえいかに自分の知識が浅薄で、判断力も洞察力もなかろうと、ない知恵を絞り、その時々でモノを考え行動していくのも自分しかありえない。人は「愚かでしかありえないから」、自分が言ったこと、行ったことで誰かを傷つけ、怒らせ、泣かせてしまうことから逃げられはしないのだ。だからまあ、「無責任賛歌」という日記タイトルの由来ということになるのであるが、これは「責任放棄して好き勝手やる」という意味ではなく、人間が等しく愚かであるならば、そもそも「責任を取る」なんてことはできない、という現実を冷徹に見つめよう、ということである。
ほんの些細な言葉が、人を傷つけ、死に至らしめることすら世の中にはある。しかし、その責任を誰に帰属させられるだろうか。ある総理の「黙殺する」の一言が何十万の人間を殺すきっかけになったことがあった。しかし、それを「総理の責任」と追及することができるか。そのときの総理が誰であっても、その時点ではそう言わざるを得なかったのではないか。責任の取れない一言である。しかしもしその総理が「責任」を感じていたとしたら、世間の轟々たる非難をただ一身に受け止めひたすら耐えるしかなかったであろう。
人間は等しく、自らの言動については「無責任」を「覚悟」するしかないのである。しかし世間は、責任の所在を「自分以外の誰かかどこか」に求めることに汲々としている。自分には責任感があると堂々と標榜している。そのほうが楽だからだ。自らの愚かさに目をつぶっていられるからだ。他人を見下して悦に入っていられるからだ。そんなウソツキの卑劣漢は、そこにも、あそこにもいる。
だから、私の「自らの愚かさを自覚し、無責任を覚悟する」などという意見は少数意見でしかないと思う。だから、この日記の賛同者が百人も二百人もいる、ということがどうにも実感できない。自分をもっと見つめたい、なんて考えている人間に出会うことなど、現実には極めて稀だからだ。ネットの向こうにはそれだけの覚悟をしている人たちがそんなにたくさんいるということなのだろうか?
もちろん常連の方がみな「覚悟している人たち」であると断定することはできない。私は日ごろから日記の中で、「覚悟のないやつ」は徹底的に揶揄し罵倒しこき下ろしている。生半可な気持ちで読んでいたら、そいつらは、「これはオレのことを馬鹿にしているのか」と確実に不快になることだろう。私はそんなやつらを燻し出すためにあえてフレーミングを行っている。だからいったんは「楽しく読ませていただいています」というメールをくれた人でも、次第にキツい口調のメールをくれるようになり、疎遠になってしまうことはよくある。
だからまあ、お客さんはどんどん減って行って仕方がないと、そのことも「覚悟」しているのに、現実にはこの五年間で、少しずつ、少しずつ、増えて行っている。いったいどういう気持ちで私の文章を読んでいるのだろう?
私は特にオタクや腐女子を罵倒している。もちろん、彼ら彼女らが「自分を見ようとしない」人種の最たるものだからだ。そして私が彼らを非難できるのも、紛れもなく私自身の中に、私が非難する「オタクのダークサイド」が確実に存在しているからである。
「批判」が単純に「他人を馬鹿にし、見下す」行為だと勘違いしている人間は多い。しかし、ある言動が「愚か」であるかどうかを判断するためには、「そういう愚かさ」が自分の中にも存在していないとできることではないのだ。人が誰かを非難するのは、すべからくそこに「自分自身」を見ているのである。まあ、親が子の失敗を叱る時に、「同じ失敗を自分も過去にやらかしている」のと同じ理屈だ。
ハッキリ言っちゃえば、私は自分自身も含めて、全人類が大馬鹿野郎のコンコンチキであると「平等かつ公平に」決め付けているので、私の罵倒から逃れられる人間はいないのである。だからまあ、私の文章を読んで、少しも不快にもならず怒りもせず、という人が常連さんの中にいらっしゃるとすれば、それはもう天使のような心の広いお方か、超鈍感か、はたまた罵倒されて喜ぶMさんのいずれかではないかとしか私には思えないのだが、あなたは、どのタイプでいらっしゃいますか?
マンガ、森薫『エマ』6巻(エンターブレイン)。
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09月07日(水)
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