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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■ひとの住む街/『王道の狗』4巻(安彦良和/完結)
アニメーター出身である安彦さんの絵の躍動感、これは『アリオン』のころから私たちファンが魅了されてきたことでもあるし、批判というのは「興味があるからこそ」行うものである(これも何度となく書いてることだが、私が『名探偵コナン』をこき下ろすのは「好き」だからなのだ)。いしかわじゅんの言は、明らかに批評家としての基本に欠けている。
いしかわさんがが“本当にそんなことを言っていれば”の話だが。
問題は実はそこにあるのであって、曲がりなりにも初回(大友克洋の『童夢』)から飛ばし飛ばしであっても『BSマンガ夜話』を見続けてきた者としては、いしかわじゅんが(その言動に問題が多々あるにしても)、“これまでの主張とまったく逆の”モノイイをするとはとても思えなかったのである。
いしかわじゅんがやたらマンガの絵を「上手い下手」で批評するのは、「マンガとしての絵」であり、「動き」という言葉も「マンガとして」のそれである。だから西原理恵子の絵については「上手い」と評し、藤田和日郎については「下手」と言ってのける。「マンガ読み」に慣れてない若い読者にとっては、これは納得いかない批評であろうが、少なくとも40代以上でそれこそマンガ漬けの生活を送ってきた人間にとっては、この「区別」については納得がいくものだろう。西原理恵子の絵は一見汚らしくて下手に見えるが、「マンガとして何を表現したいか」と言えばまさしくその「汚らしさ」であって、時代とともに変遷してきたあの自画像は、西原さんの内面描写として最適なのである。『ちくろ幼稚園』の初期のころはまだまだ荒削りだった表現が、『ぼくんち』のころには西原オリジナルと言っていい「洗練されたへたくそ」の域にまで達している。それに対して『うしおととら』のころの藤田和日郎は、まだまだ自分の表現を身につけていない、どこかで見たマンガの模倣的な絵も多かった。そりゃ、「マンガとして」どっちが上か、と言われれば、西原さんに軍配を上げるのは当然なのである(さらに言えばいしかわさんは藤田和日郎についても「マンガ好きなために模倣から始まるのは当然」と決してけなす文脈の中では語っていない)。
いしかわじゅんが「誤解」を受けやすいのは、彼が「マンガ好きにしか通じない」テクニカルタームでのみ語っているからで、どうもいしかわさんはテレビの前の視聴者をみんな自分並みの「マンガ好き」だと思い込んでいる節がある。んなこた絶対にないんで、マンガをたくさん読んでると嘯いてる連中だって、「歴史と伝統と文化」の文脈で読み解いてるヤカラなんて、数えるほどしかいない。現代のたいていの「読者」は、たとえば「ジャンプマンガしか読まない」「ガンガンしか読まない」「四コママンガ雑誌しか読まない」などというように細分化されていて相互交流がない。そんな人間にそもそもいしかわさんの「専門用語」が通じるはずはないのだ。
これだけマンガが文化として定着している現代では、かえってその全貌を語れる人間などいなくなっている。『マンガ夜話』の出演者にしたところで、いしかわじゅんと岡田斗司夫両氏の世代間にはいかんともしがたい溝が横たわっているのである。
悲しいことに本職のマンガ家であってもそういう「マンガ批評の言葉」に通じていない人は多い(マンガしか描いてないでコミュニケーションも薄いし活字を読まないからである)。言っちゃ何だが、安彦さんも「批評の人」ではない。そこに読み取りの間違いがあったのではないかと推測されるのである。
あいにく私は、『BSマンガ夜話』の『虹色のトロツキー』の回を見ていない。つまりこれらの推測は確たる根拠を持たないものであるので、実際に番組を見ていた人で、安彦さんのあとがきも読んでいる人の感想がどこかにないものかとネットを探してみたら、これがあった。ほかならぬ『BSマンガ夜話』出演者である夏目房之介氏の日記である。
実際にあの番組を視聴していたファンからの「別にいしかわ氏は『記号論』についてなど語ってなどいないのではないか」という質問に対する返答として、まだきちんとビデオを見返していないとりあえずの印象だが、と前置きした上で、いしかわ氏に代わっての「再反論」をしているのである。
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04月02日(土)
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