ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491678hit]
■「宅間守」という“役者”の死/『ああっ女神さまっ』29巻ほか
アメリカで何か番組がヒットすると、追随したような番組が日本でも作られることが多いが、これはさすがに簡単にマネはできないだろう。だからこそこの番組そのものをちょっとだけでもいいからCSとかで放送してくれないかと願ってるんだけど、なかなかムズカシイかねえ。
2001年、大阪教育大付属池田小学校で児童8人を殺害した宅間守の死刑が執行。
死刑反対論者ででもない限り、妥当な結果、と考えている人も多いと思われるが、なんだかどうも釈然としない。事件自体もそうだが、死刑に至るまでのプロセスは全ては宅間死刑囚の独擅場だった。
「家庭が安定し、恵まれ、勉強できた人間でも、アホで大けがして展望のない腐りきった自分のようなおっさんに、たった五、六秒で刺されて死ぬ。そんな不条理さをわからせてやりたかった。いくら勉強できようとがいつ死ぬか分からん人生。世の中勉強だけちゃうぞと一撃を与えたかった」「エリートでインテリの子をたくさん殺せば確実に死刑になれると思った」などの手前勝手な主張を聞いて、我々は憤った。しかし考えてみると、宅間死刑囚の思惑は全て図に当たってしまっているのである。
被害者の子供たちは全く不条理に殺された。そして宅間死刑囚は死刑になった。けれどそれは全て彼が望んだ通りの結果なのである。
いや、宅間死刑囚は、最期には自分の罪をちゃんと認識していたぞ、というご意見もあるかと思う。一見、反省とも取れる言葉を、接見した東海女子大の長谷川博一教授に彼は語っているからである。「殺された子供の立場に立ったら無念だったろう」「自分のしたことで不幸になった人がいるのは分かっている」。けれど私に言わせればこんなのは悔悟の言葉でも何でもない。ただ自分のしたことの因果関係を事実として確認しているだけのことである。結局、彼は蕭然として自ら首を縊ったも同然である。
私がどうにも釈然としない、というのはここなのだ。
これは「死刑」ではなく、ただの「自殺」ではないのか。法は、彼に罰を与えるどころか、彼の自殺を手伝ったただけではないのか。もちろん、彼を死刑にするべきではなかった、などと言いたいわけではないが、“本人にとって何の罰にもなっていない”刑に、いったいどんな意味があるのか、どうしても納得し難いものを感じないではいられないのである。
これは、たとえ死刑になろうとも、法が宅間死刑囚の前に「敗北」した瞬間なのである。「劇場型犯罪」と呼ぶなら、これは、俳優・宅間の演技に我々が無理矢理脱帽させられてしまっているのである。悔しいとは思わないか?
……ドス黒い感覚であると知りつつ、あえて言おう。
宅間死刑囚にはどこかで自分の罪を悔悟してほしかった。そして、自分が死刑になる恐怖におののいてほしかったのだ。13階段を上りながら、「死にたくない! 俺が悪かった! 助けてくれ!」と身を捩じらせ醜く泣き喚く彼を死刑にしてこそ、我々の溜飲は下がったはずなのだ。しかし、どんなに時間をかけ、説諭を繰り返したところで、まさしく「腐りきった」彼にそんな瞬間が訪れることはなかっただろうと思う。
どんなに怒りが収まるまいと、我々は、彼が語ったごとく、腐りきった人間にごく普通の子供たちが(宅間死刑囚にとっては小学生でもエリートに映ったようだが)殺されてしまう“不条理”、それを、臍を噛みつつ、事実として受け入れるしかないのである。
……せめてラクに死なせるんじゃなくて、指一本ずつ切ってくとか、なんかそういう苦しめて苦しめて苦しめた末に殺すくらいのことはしてやりたかったよ。
09月14日(火)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る