ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491680hit]

■演劇人必聴! 森田順平さんのお話。
 「『ゆゆしき』『つとに』『よんどころない』、こんな言葉を聞いたこともなければ使ったこともない若い人が増えています。それこそ『ゆゆしき』事態なんですが、文化庁はこれを“年長者との会話が減った”“活字離れ”が原因と説明しています。けれど、多分それだけではないでしょう。私の考えるに、そこには『肉声表現の経験の少なさ』があると思います。
 『声に出して読みたい日本語』の齋藤孝さんが仰っているんですが、人間は、たとえ意味がわからなくても、言葉を声に出すことで脳が活性化していく、というんですね。脳はどんなに栄養を与えても成長しない。脳が成長するのは『知識』によってなんです。
 携帯電話が普及していますが、若い人は声で会話なんてしていません。みんなメール交換ばかりです。バスに乗っても、みんな黙々としてメールを打っていて、その音だけが響いている。テレビを見ていても、バラエティ番組では、たいてい下にタレントが今何をしゃべったのか、そのままテロップが出る。つまり言葉を『話す』時代から『書く』時代に変わって来ているんです。時代の趨勢は変わりようがないとし、昔に戻れと言う気もないのですが、忘れてはならないこともあるのではないでしょうか」
 ちょうど、警察庁が、昨24日に、「万引などで補導、逮捕された『非行中高生』が1日に携帯で電話をかける平均回数は7.7回、メールが42.6回で、それ以外の『一般中高生』を大きく上回っている」ことを発表している。かなり恣意的な超さで、この結果から「肉声表現が疎かになったために、非行も増えた」という結論を導き出そうという予断がミエミエで、腹立たしさすら覚えるのだが(そんなにメールが打てるのは単に学校に行ってないからだろう)、伝言ならばともかくも、今現在、会話ができるのに、メールのやりとりですます、という若い人の感覚は確かにわからない。そんなに相手と喋りたくないものなのか?
 私も、携帯電話を使うようになって(しげに無理矢理持たされて)、数年が経つが、メールのやりとりは専ら「今、電話で会話できない状況」の時に限られている。職場にいるとか、バスに乗ってるとか。あとは「喋り過ぎると電話代がかさむ」からか(^_^;)。
 森田さんは、今テレビで見て「素晴らしい」と思える番組はNHK教育の『にほんごであそぼ』だけだという。時間帯が合わないので私は見たことがないのだが、小学生に狂言や落語ブームを起こしているのはこの番組だとか。……そう言えば、本屋の児童書のコーナーにやたら『寿限無』が平積みにされてたなあ。まさしく、『意味がわからなくたって、言葉を使うこと自体が楽しい』のが落語であり狂言だろう。こういう文化が小学生に浸透していくのなら、確かに森田さんも仰っていたが、「日本もまだまだ捨てたものではない」のである。
 講演会の締めは、森田さんの、中島敦作『山月記』の朗読。
 普通の人が耳で聞くには、漢語だらけでチトつらい話ではあるが、一応ブンガクブでもあるし、私もこれは好きな小説で、暗誦はできずとも文脈自体は概ね諳んじている。「あの単語、どういう意味だったっけ?」と迷うことなく、作品世界を楽しむことができた。
 ただちょっと気になったのは、冒頭の「隴西の李徴(りちょう)は博学才穎(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね……、」の「隴西」を「ろうさい」と発音していたこと。これ、実は初版以来のルビの「誤植」で、ほんとうは「ろうせい」と発音しないといけないんだよね。山西省は「さんせいしょう」だし、陝西省も「せんせいしょう」、「西安」は「せいあん」だ。京大系の学者は「ろうさい」に固執してるらしいけれど、中島敦は東大だから(^o^)。
 でもそういう細かいところはどうでもよくて、やはりセリフが感情表現になっているところがさすが役者さんである。『山月記』は淡々と読むと、テンポがいいだけに眠くなっちゃうんだけど、獰猛、冷徹、自恃、哀願、自嘲、さまざまな感情が交錯する李徴のセリフを、緩急自在に語る森田さんの朗読術は素晴らしいの一語に尽きた。
 ここしばらくの『金八先生』は見ていなかったのだけれども、秋から撮入という新作も乾先生目当てで見たくなってきた。



[5]続きを読む

06月25日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る