ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491704hit]

■オタクについて考える夜/『コラムは誘う ―エンタテインメント時評 1995〜98―』(小林信彦)
 ついにエロさん、怒髪天を突く勢いで卓袱台をひっくり返し、隠し持っていたサブマシンガンVz61通称スコーピオンをぶっぱなしてあたりを血の海にした上で、居酒屋のねーちゃんを全員人質にして立てこもって、「日本政府に『オタク保護法』の成立を約束させるまで戦うんだ!」と絶叫し、国内外のオタクへ向けて階級闘争を訴えた檄文を飛ばして華々しく切腹して果ててしまった。
 というわけで、今、たからビルで働いておられるにこやかなエロさんはゴーストです(^o^)。

 けれど、やはり思うのはオタクの浸透と拡散、ということである。
 私は映画が「音と映像の芸術」であるというのは常識だと思っているし、古い映画がDVDでリニューアルされるときのウリとして、映像ばかりでなく音声にも力を入れているのは当然のことだと思っていた。
 もちろん、私がそういう「常識」を得るに至ったのは、そういった「映画はこう見ろ」ということを教えてくれた人が、周りにいくらでもいたからである。
 例えば、私と同世代でオタクの世界に少しでも触れている人間ならば、故・長岡鉄男氏のオーディオに関するウンチクに接したことのない者はいないはずである。私は、このトシになっても、とても音響に関する知識を披露できるほどの才覚とてないのだが、それでも音響についてテキトーな発言はできんなあ、程度のことは氏のコラムを通して学んでいた。
 考えてみれば、AIQのスタッフも私より世代がひと世代、下なのである(オタクの世代は数歳違えばもう話が通じなくなることがしばしばだ)。5歳も違えば、長岡氏のコラムに触れたことがない人がほとんどだろう(亡くなったのはほんの三年前なのだが、その勢力的な活動は80年代末まででほぼ終わっている)。こういうオタク的知識はほとんど「独学」でしか培われないので、よいお手本がなければ理解のしようもない。
 だが、そう同情的に考えても、やはり胸の中を寒い風が吹き過ぎて行くのを感じないではいられない。なにか、感覚的にどうにもならないケツラクを若い世代の人々に感じないではいられないのだ。

 最近、この「感覚の溝」を埋めるというのは並大抵のことではないなあ、という気がしてきて暗澹たる気分になることがある。私は自分のことを根本的には虚無的だと思っていたが、こと「オタク」に関しては「理想主義者」だったのかもしれない。たとえお互いに知ってる分野、知らない分野で個人差があっても、オタクの輪は繋いでいけるんじゃないかとコドモみたいな夢を見ていたのだ。
 そのこと自体、そもそもの間違いだと言われればそれまでかもしれない。けれど、私は自分の知らない話でも、そこに何がしかの「真実」があって、脈絡さえ繋がっていれば聞いていて楽しいのだ。みんなもそうだろう、と思っていたのが私の錯覚だったのである。
 ……なんだか川原泉みたいだが、やっぱり「夢だっていいじゃない」という気分はこれだけ薄汚れた私の心の中にもどこかに残っていたのだろう。
 まだまだ甘いんだなあ(~_~;)。

 会話の流れの中で、私の視力のことが話題に上った。
 武内さんが、「身障者手続きを取ったらどうですか?」というのである。
 私の裸眼視力は0.01を切っている。矯正視力でも0.3だ。それ以上にはもう上がらない。これは充分、身障者の対象になるというのだ。
 そういうことを一度も考えたことのない私は、一瞬、虚を突かれた。
 「バスや電車の料金がタダになりますよ」と武内さんは仰る。確かにそれは便利は便利だなあとは思う。けれど、そもそもそういうサービスを受けるのが当然、という発想が私にはなかったのだ。
 うーん、ほかの眼の見えない人にそういう利益が保障されることは当たり前だと思うけれど、自分に対してはあまりそういうことを考えてないっていうか、「権利意識」でそういうの考えたことなかったんだよなあ。
 私は自分の思考判断の基準には職人気質のようなものがあると思っているが、これは往々にして世間との人間関係を無視とまでは言わないまでも軽視する傾向を生み出してしまう。軽いニヒリズムのようなもので、「人は人、世間は世間、自分は自分」と考え、他人の基準を自分の基準に持ちこまないのである。

[5]続きを読む

02月01日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る