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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■少女はやがて怪物になるのだ/映画『WXV PATLABOR THE MOVIE3』ほか
高山監督も、『ポケットの中の戦争』が傑作になったのは山賀博之脚本に助けられてのことだと私は思っていたから、今回のとり脚本とどう格闘しているか全く読めない。
果たして、伊藤和典、押井守の色濃い前作と比較されて、それに堪えられるだけのものになっているかどうか。
杞憂だった。
結論から言えば、こんなに私の「好み」の脚本に仕上がってるとは思いもしなかった。
つーか、この脚本の妙、読めなかったら、映画ファンとは言えね〜よ。
確かにセリフは少ない。
しかし、それは説明の必要がないからだ。
まず、主役の久住がなぜ片足を引きずっているか、なぜ家族から見捨てられているか、そんなことは一切語られない。それがいい(「こないだ見たビートたけしの『張込み』とは雲泥の差だ)。
「それじゃキャラクターに感情移入できない」と思ったやつ、小津安二郎を見ろ。初期の黒澤明を見ろ。説明なんかしてね〜よ。映像と音でちゃんと見せてらあ。いちいち説明されなきゃわかんないのはガキだぞ。
今、「小津・黒澤」と言ったが、まさしくこの映画はその抑制されたセリフによつて綴られる日本映画の流れにあるもので、これがスゴイことに、怪獣映画でありながら、怪獣映画のセオリーをことごとく裏切っている。
つーか、出渕さんが言った通り、「基本的に」怪獣が登場しなくていい映画になっているのだ。
湾岸で次々と起こるレイバー襲撃事件。
それは殺人事件にまで発展する。
捜査を開始する久住と秦の両刑事。秦は捜査の過程で、岬冴子(原作の西脇冴子)という女性と出会う。
隕石から採取され、培養された後、廃棄されたはずの宇宙生命体。
彼女はそれに人間の癌細胞を移植していた。
その怪物、「廃棄物13号(ウェステッド・サーティーン)」が事件の犯人だったのだ。
事件の捜査の過程を地味に地味に追い続ける描写は、まさしく黒澤明の『野良犬』。ラストの13号との対決シーンで、ピアノが流れるコントラプンクト(対位法)まで。しかも、『野良犬』でピアノが流れるのは「偶然」だが、今回は「必然」である。それだけリアル志向が徹底していると言っていいだろう。
劇中でのタバコの使い方、これもうまい。
煙草を止めている秦が最後に無表情に煙草を吸う。なぜそうなったかは説明の必要もない。
これは『晩春』の「瓶」なのだ。……小津だよなあ。
……ネタバレを避けて書いてるので、何のことか分りにくい人もいるだろうが、想像して下さい。
実のところ、怪獣ものをリアルに描く、なんてことは不可能に近い。
だから、たいていの怪獣ものはファンタジーに逃げる。映画そのものが一つのファンタジーである訳だから、それは構わないのだが、所詮、「絵空事」と批判されることにもなりかねない。
培養された宇宙生命体。
そこまではいいとして、それが巨大化し、人を食らい、更に「レイバーを着こんで」レイバーと戦う。
ここまで来ると、「荒唐無稽」の謗りすら受けかねない。
実際、ラスト近く、イングラムとの戦いが近づき、13号の姿が露わになるにつれ、それまでの「刑事もの」との違和感、久住と秦の存在と、ドラマとの乖離が始まると、「やっぱり怪獣出さないほうがよかったんじゃ……」という不安がよぎったのだ。
しかし、レイバーを怪獣が着こむことに、原作と違う、あのような別の意味を持たせるとは!
13号の装甲となっていたレイバーが破壊され、その中から現れたものは……。
そしてそのとき初めて、西脇冴子がなぜ岬冴子にならねばならなかったのか、怪獣の少女のような悲鳴と、冴子の横顔がなぜオーバーラップしなければならなかったのか、それが見えるのだ。
冴子は言う。
「怪物、廃棄物13号、人はいろんな名前であの子を呼ぶわ。けれど私にはあの子の名前はたった一つだけよ」
その名前を冴子は語らない。
語らないが誰もが知っている。その名前を。
そして気がつく。彼女が、今まで13号の名前を一言も発していなかったことに。
それまで冴子の狂気の描写は数少ない。しかし、その瞬間、その「狂気」を示すシーンが観客の脳裏に蘇える。
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04月07日(日)
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