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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■新番第4弾/『クレヨンしんちゃんスペシャル』/『化粧した男の冒険』(麻耶雄嵩・風祭壮太)ほか
なんで放送しなかったかなあ、ポスター見ると、ヨミのそばにいかにも『ジャイアント・ロボ』の銀鈴っぽいキャラがいたりして、以前のOVA版より、はるかにヘタレそうな気配が濃厚でタノシミだったのになあ。
時期遅れでもいいからやらないかな。
……けど、局にリクエストハガキ送るほどの出来でもないんだよな、きっと。
ネットを渡り歩いていて、岡田斗司夫さんの「OTAKING SPACE PORT』の巻頭言に目が止まった。
「 あるサイトでこんな「フロン」感想を見つけました。
>『フロン』読んでわたしは違和感を持ちました。
>著者には申し訳ないけど、しょせん頭のなかで生きてる
>オタクの言うことだなあ、と正直言って思いました。
本を出したからには、どんな感想を持つのも本人の自由です。
でも、上の感想は、なんかイヤな感じがしました。ちょっと考えたらわかったのですが、これを書いた人はオタクを差別しています。これが「しょせんバカの書いたタワゴト」と書かれたら、別にイヤな気分はしなかったと思います。
この感想を書いた人の「オタクだからダメ」という視点が、なんかイヤだったんでしょうね。
たとえば「オタク」を「女」と言い換えてみましょう。
>『フロン』の感想を読んでわたしは違和感を持ちました。
>書いた人には申し訳ないけど、しょせん頭のなかで生きてる
>女の言うことだなあ、と正直言って思いました。
ね、けっこうひどいでしょ?
今まで「しょせん女だから」「女の考えることなんか」と差別される側にいた女性でも、こんなに簡単に人を差別して、おまけにそれには無自覚な様子なのでイヤになっちゃいました。」
私は岡田さんが怒ってくれてるってことで嬉しくなっちゃったぞ。
『オタク』と言うコトバが一般に浸透した原因は、ルーツと言われる中森明夫のエッセイよりも、宅八郎と宮崎勤の存在が大きい(それが証拠に、私の大学時代、既に中森氏のエッセイは発表されていたが、私を含めて、私の周辺のオタク的な人々の誰一人として「オタク」と呼ばれたことはなかった)。
言わば、全くのマイナスイメージだ。
そのとき作られたマイナスイメージは、未だにあちこちで偏見と差別を生んでいて、「アニメが好きだ」と言っただけで「え〜、キミ、オタク?」なんて言われちゃうこともままある。
宮崎勤事件が起きた時、たいていのオタクは「アレはホンモノのオタクではない」と、そのコレクションの「レアものならなんでもいい」みたいな嗜好性のいい加減さを指摘して、オタク仲間からの「追い出し」を図ろうとしていた。
私の場合、当時は逆に「俺はオタクじゃない、マニアだ」とか言ってたなあ。でも実質、宮崎勤との間に差別化を図ろうとしてた点では同じだ。でもなあ、やっぱり社会的常識から言えばさ、何万本ってビデオを持ってるってだけで、充分「オタク」なんだよな。いくら本人が否定したって、物理的な共通項があれば、世間は一つのカテゴリーでくくっちゃうよな。
かと言って、くくられて仕方ない、と諦観できるわきゃない。
なんたって相手はヘンタイの犯罪者だ。当時のオタクたちはたとえムダだと知りつつも、宅八郎や宮崎勤なんかと同一視されることを嫌がる言質を繰り返して訴えてきたのである。……まあ、嫌がらないほうが不自然だよね?
オタクたちは、自分たちが好きなもの好きだって堂々と言えるだけの文化的土壌を持っていなかった。それどころか、宅や宮崎の登場で、自分たちの立場を社会的に認知させるためのコトバすら奪われてしまっていた。
「オタクのどこが悪い!」
たったこれだけのことを、口に出せないムードが、社会を支配していたのである。
それを、「オタク」というコトバはそのままに、内実のイメージを全く逆にプラス転換するというアクロバットのような手法で逆転させてしまったのが岡田さんの「オタクエリート論」なのだ。
もちろん、その論の創始者は必ずしも岡田さん一人に限定は出来ないが、世間に対して積極的に戦略を展開していったのは紛れもなく岡田さんだ。
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10月05日(金)
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