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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■九州国立博物館開館一周年「『海の神々』 〜捧げられた宝物〜」展
 「話し合いは必要だ」という戦後民主主義的イデオロギーに盲目的かつ脊髄反射的に従っただけの、思考停止状態に陥った状態での発言ではないのか。

 日本人の議論下手が始末に悪いのは、「やってみなけりゃ分からないじゃないか」と、往々にして議論をすっ飛ばして出たとこ勝負に走ってしまう傾向にあることで、結果として「やってみる前に分かりきっている結末」に陥ってしまう。
 先の戦争が侵略戦争だったか自衛戦争だったか、そんなイデオロギーはどうでもいいが、戦略的に考えれば真珠湾攻撃の時点からミスだらけだったことは今や明白な事実である。幕末以来、薩摩と長州の単細胞に支配され続けてきた弊害が先の戦争でも如実に現れてしまったと見るのはあながち的外れではなかろう。

 前置きが長くなったが、「核保有には反対だが議論はしてもいい」という、一見理性的に見える主張は、実態としては殆ど「何も考えていない」人たちによって口にされている、ということである。
 もちろん熟慮の上でそう主張している人たちもいるだろうが、困ったことに両者の違いは結論だけは一致しているので、表面的には区別が付かないのである。
 「ただ話し合えばいい」と口にするだけで、中身を考える力もない連中に「核」を持たせたら何を仕出かすか。それが怖いから、簡単に「核を持つことも想定して」とか「議論だけならしてもいいんじゃない?」とか、軽く口にはしたくないのである。

 要するに「議論をすることに反対じゃないけど、その相手が馬鹿ばっかだったらどうするのよ」ということなのだ。「世論」は基本的に正邪の判断とは無関係だと認識する必要があるんだけれど、困ったことにある一定の「力」だけは持ってるんだよねえ。
 「政治家」と呼ばれる人たちが本当にしなければならないことは、「世論」をある一定のレベルで尊重しつつ、自らは100年先の未来を見据えて、我ら愚民を意識誘導してとりあえずの平和と満足を与えてくれることなんだけれども、そんな技術を持ってないやつらばかりだからなあ。

 先日の福岡市長選挙で落選した前市長・山崎広太郎が敗戦の弁をこう語っていた。
 「私個人への反感を跳ね返せなかった」
 個人的に嫌われてるって分かってるんだったら、選挙に出て無駄金使うなよ。それだって公費じゃねえか、と、やっぱり「やってみなけりゃ分からないじゃないか」で人工島だのオリンピックだのとぶち上げてきた単細胞はようやく退陣したのであった。
 大衆レベルの政治家ばかりの国で、「議論」が果たして成立するのかってところから始めないといけなくなってるんじゃないかね。「世論調査」ってのは社会学的には意義のあることだけれど、一般人の政治論の判断材料として考慮するのは控えた方がいいのである。



 今日は朝からかなり強い雨。
 本当はしげ。と太宰府の九州国立博物館まで「開館一周年記念特別展 『海の神々』 〜捧げられた宝物〜」を見に行く予定だったのだが、例によって例のごとく、またしげ。が渋りだした。
 しげ。はもともと、博物館や美術館の類にはたいして興味を持っていないので、自主映画撮影のロケをダシにして、むりやり連れ出すつもりだったのだが、それも雨天のせいでオシャカになった。
 いったん、出かけるのを中止しようかとも思ったが、今回は“海の正倉院”沖ノ島の遺物が展示されるということで、ひとりで見に行くことにする。
それでも雨が上がる昼まで待ったんだけどねー。しげ。結局、てこでも動かないのであった。
 「大橋までは送ってあげるよ」というありがたいお言葉を頂いて、西鉄大橋駅へ。途中、雨に降られることもなく、無事、太宰府に到着する。

 以下、簡単に展覧会の内容と、感想などを。

「1章 海から生まれた神」
 > 海人(アマ)あるいは海部(アマベ)と呼ばれた古代の海の民は、海に住む神霊を祭っていました。『古事記』・『日本書紀』(記紀)では、黄泉の国からもどったイザナギがミソギをした時にワタツミ(綿津見)神とツツノヲノ命が海から出現したといいます。ワタツミノ神は海人族の阿曇氏の氏神であり、ツツノヲノ命は住吉神とも呼ばれ、航海の守護神でもありました。


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11月26日(日)
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