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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■いつか親を殺す日/ドラマ『火垂るの墓』/『光車よ、まわれ!』(天沢退二郎)
 父は、昔、酔っ払って私を殺しかけたことがあることなど、とっくに忘れているのである。これは比喩でも私の妄想でもなくて、私の態度が生意気だという理由で(泥酔した親を前にして、小学生がいい顔ができるわけがない)、鉄製の盆で頭をめちゃくちゃ殴られたのだ。血まみれになった私を、母が間に入って助けてくれなかったら、本当に死んでいたかもしれない。当時の私には児童相談所に虐待の事実を報告して何とかしてもらうなんて知恵はなかったから、私はひたすら毎日を怯えて過ごすしかなかった。我慢が何とかできたのは、三十年くらい前までは、そんな目にあっても親には逆らえないと我慢している子供が私のほかにもいくらでもいて、それも「しつけ」の範囲内だと考えられていたからである。時代は本当に変わったよなあ、親が子供を虐待した程度のことがニュースになるんだから。
子供のころ、父からぶたれなかった日は一日もなかったくらいなので、私の父への親子の情愛などというものはとっくになくなっている。
 それでも今、父を見捨てないでいるのは、反発するには父があまりに年を取り過ぎてしまったせいだろう。ここにいる父はもう昔の父ではない。バットを振り回して逃げる私を追い回し、何度も殴りつけた父はもういないのである(これはしょっちゅうやってたので、さすがに父にも記憶は残っているらしく、こないだも姉に「そのくらい子供はしつけないといけない」と威張って言ってたそうだ)。恨みを忘れたわけではないが、恨める対象がいなければ諦めるしかないのである。

 その、母親にタリウムを飲ませたとかいう静岡県伊豆の女子高生も(容疑を否認し続けているそうだが)、母親になにかの恨みがあったのかなあ、と漠然と思う。ニュースを見ていると、「ブログに毒殺日記を付けていた」とか、「グレアム・ヤングのファンだった」とか報道されているから、単なる快楽殺人者だったのかもしれないが。
 逆説的なモノイイになってしまうが、恨みや憎しみがあった方が、人と人との関係は「人間らしい」ように思う。思いが報われないから人は人を憎むのである。つまりはそれだけ相手への思いが強いということだ。こう言っちゃなんだが、しげは私と結婚していなかったら、私のストーカーになっていただろう。ホモオタさんが未だに私に執着してストーカーになっているのは、私に相手にされなかったからである。善悪の問題は別として、その思いは人間のものとして理解がしやすい。
 毒殺未遂少女にとっても、その手段は、彼女なりの親へのアプローチだったのかもしれない。けれどもそれは、我々の常識では到底図り得ない領域のものである。どうせそのうち、「人権派」の弁護士やら識者やらが、「未成年の少女には更生の機会を」とか言い出すんだろうけれど、常識の埒外のメンタリティの犯罪者を、どのように更生させられるのか、その具体的な方法をきちんと提示してくれてる例って少ないよね。



 ドラマ『火垂るの墓』。
 高畑勲監督の傑作アニメーション、これを最初に見た時には、「これをどうしてアニメーションにしなきゃならないのか」という疑問を抱いたものだった。「こんなふうにリアルに描くんだったら、実写でいいじゃん」というのが理由である。
 けれど同時に「でも、もう戦争の惨禍や、当時の日本人らしさを描こうと思ったら、もう実写では再現不可能になっているのかもなあ」とも考えていた。
 結果は、本作が証明してくれた。もう、現代の日本人に太平洋戦争を描く映画を作ることは無理である。

 井上由美子の脚本のデタラメさはもう、いちいち突っ込んでいつたらキリがない。もともとの原作にも雑なところはあるんだが(野坂昭如は締め切りに追われて数時間で書き殴ったとかいう話である)、ひと様から預かった子を、それも海軍将校の子をあんなに虐待したら、隣組の中で非国民扱いされるのはオバサンの方だろう。戦時中の隣組は、民衆の相互監視の意味があったんだから。オバサンは、自分の子供を犠牲にしても預かった子の方を優遇しないと何を言われるか分からないのである。アニメの方はあそこまで苛められる前に引け目を感じた清太と節子が出ていったから、そう不自然でもなかったんだけどね。

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11月01日(火)
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