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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■父との遭遇/『D.Gray-man(ディー・グレイマン)』6巻(星野桂)
しょうがないので、昼メシを食いに出るついでに病院にも回ることにする(笑)。

 家にある本を引っ張り出すには山をまた一つ二つ崩さなきゃならないし、私の持ってる本は昔のものが多くて、概して活字が小さい。父が希望する捕物帳の有名どころはたいてい持ってはいるのだが、大きい活字版で買い直してもよかろうかと、博多駅の紀伊国屋に寄る。それに嶋中文庫から出ている『銭形平次捕物控』シリーズは、私が以前買っていた「富士見時代文庫」版とは作品のセレクトの仕方が違うのである。富士見版には何と平次第一作の『金色の処女』が収録されていない。これは多分、第一作のころは平次とお静も結婚してないし(タイトルの「金色の処女」はお静のことである!)、ガラッ八も出てこなくて、後期の平次とイメージが違い過ぎるという理由もあったのだとは思うが。
 『銭形平次』の11,12巻と、同じ嶋中文庫の『人形佐七捕物帳』1巻、光文社文庫の『半七捕物帳』1巻、新潮文庫の『再会 慶次郎縁側日記』の五冊を購入、病院に向かう。

 病室では父は前に貸した『銭形平次』を読みふけっていた。熱中していて、私たちの訪問に気がつかなかつたくらいである。
 「あともうちょっとで読み終わるぜ」と得意げである。テレビは全く見ていないらしい。「今度は本ば読もうと思ってな」と楽しそうである。持ってきた本を見せて、「前の『桃太郎侍』とかはどうだった?」と感想を聞いてみる。「テレビと全然、違うとったろ?」
 「ああ、テレビばどうしても思い出すもんやけん、何か違うとるなあって感じしかせんやった」
 「『一つ人の世生き血をすすり』とかも言わんしね」
 「そうたい。ドラマにする時に変えたとやろうな」
 「映画は高橋英樹やなくて市川雷蔵がやっとるんよ。こっちの方が原作に近いんやね」
 母の生前は、父とこんなふうに時代劇の話をすることは殆どなかった。本や映画を見ているのはいつも母だったし、私の昔の映画の知識は、殆ど母や祖母から(それこそ「目玉の松ちゃん」の昔から!)聞かされるうちに自然と身についたものである。
 しかし、父もまた戦前生まれであって、父の青春時代と「映画の黄金時代」とはぴったり重なっている。父と昔の映画の話をあまりしてこなかったのは今更ながら痛恨のことで、「時代の財産」を聞き損なってきた、という忸怩たる思いに駆られてしまう。
 父とこれから先、こんな他愛無い話がどれだけできるかは分からないが、本をきっかけに昔のことが聞けたらいいなと思う。もっとも父が記憶を辿ることができればの話であるが(笑)。
 


 唐沢俊一・おぐりゆか『唐沢先生の雑学授業』(二見文庫)。
 コンビニでも「〜の雑学」みたいなタイトルの雑学本が何種類も出回っていると、何かもう一つ「読ませる」コンセプトがないとなかなか手に取ってみようという気にならないものだが、これは唐沢センセイに対して「うわの空・藤志郎一座」の女優、おぐりゆかさんを生徒に仕立てるという趣向が見事に生きていて、これまでの唐沢さんの雑学本の中でも一番読みやすく楽しい一作になっている。
 唐沢さんがお一人で書かれた本については「生徒」はどうしても読者になってしまうわけで、先生に対して「それ、ホントですか?」とか「○○が○○だとすると××は××なんですか?」とか聞き返すことができずに、「お説ゴモットモ」と受け入れるしかなかったわけである。雑学本というのは、専門的な知識書じゃないんだから、読者はどうしてもそういうツッコミを入れたくなるものなので、そこが弱点になってしまうが、これはおぐりさんが生徒の役目を見事に果たしていらっしゃる。この場合、生徒がバ……いやいや、素朴で基本的な疑問を発してくれればくれるほど、一問一答の面白さは弥増す。あまりに素朴すぎて虚を突かれて、唐沢センセイが咳払いで誤魔化したりケツまくって逃げたり、そのあたりのやり取りも楽しい。インテリな先生というものは、インテリだってだけで権威的で横柄で、ヒゲなんかピンと立ててるけれども、それが生徒の疑問にまるで答えられなくて返事に窮して四苦八苦する、その様子を笑って見るのが面白いのである。

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10月23日(日)
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