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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■江角英明さん追悼
「声優」としての江角さんの代表作、あとは誰しもが『ルパン三世』のパイカルを挙げるだろう。脚本の大和屋竺の「引き」で配役された、不気味さとニヒルさが同時に漂ってくるような淡々とした喋りで、これぞ唯一無二のパイカル、と言っていいほどのハマリ役であったが、今思えばこれも山田康雄対江角英明というトンデモなく贅沢で魅力的な対決モノだったわけである。近年の続編、『生きていた魔術師』でパイカルの声が野沢那智に変更になってしまったことは、野沢さんには悪いが、腹立たしくてたまらなかった。
役者の本領は舞台である(映画向きの役者、声優向きの役者がいることは分かるが、基本はそうなのだ)。映画、ドラマ出演も多いが、江角さんはマイム、狂言、バレエと、「舞台のため」の修練も怠らなかった。と言うより、晩年の江角さんの活躍の場は主に舞台に拠っていたと言っていい(屯田署長もあるけどさあ)。
江角さんに限ったことではないが、役者が亡くなった時に、その人の舞台での活躍に触れないで追悼を述べたものは画竜点睛を欠くと言うか、殆ど無価値と言っていいくらい、肝心な部分を欠落させているのである。私も江角さんが『午後の遺言状』や『12人の怒れる男』などの舞台で活躍していたことは知っていたので、機会があれば見たいと思っていたのだが、その機会は永遠に失われてしまった。もう書きたくても書けない。
でもどうせ、江角さんの追悼はしても、そこで舞台にまで触れてくれる文章は、プロの評論家の中でも殆どなかろうと思うのである。なぜなら、「映画評論家」という人たちは殆どと言っていいくらい「舞台」を見ないからだ。「演劇評論家」が映画を見ないということはあり得ないのに、なぜ映画評論家たちは役者が本気で取り組んでいる「舞台」を見ようとしないのだろう。博多は田舎だから、東京に比べれば舞台公演も遥かに少なく、東京に住んでる人たちが羨ましくて仕方がない。その東京人の評論家が、驚くくらい舞台を見ていないことが、どれだけ悔しく感じられることか。天本英世さんが亡くなった時も、名古屋章さんが亡くなった時も、フザケルナと言いたくなるくらい、舞台での活躍に対する評価が語られなかった。確かに江角さんの場合も、映画での活躍の方がより目立っていたことは分らないでもないが、「映画評論家だから、映画のことについてだけ語ればいいや」なんて考えているとしたら、その了見は大間違いである。例えばもし、森光子が亡くなったとしたら、彼女を『映画女優』や『川の流れのように』だけで評価できると誰が思うだろうか。
プロならなあ、もちっと舞台にも目を向けろよ、と言いたくなるのだが、どうせ今回も江角さんの舞台に触れた追悼は少ないのだろうと予測がつくだけに、やり切れない思いはますます募ってしまうのである。
せめてその活躍の断片なりとも、知りたいのだが、期待できるのは舞台関係者のコメントだけである。誰か書いてくれないかなあ。
08月24日(火)
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