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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■湯浅憲明監督、死去
 オトナになって、「昔のガメラって、今見るとつまんないよね」と簡単に言ってしまえるのは、座敷わらしが見えなくなっているのと同義なのである。いや、大人になっても妖精の存在を信じているのはデンパさんであろう。私だって、別に「ガメラが本当にいてくれたら」なんてことが言いたいわけではない。オトナになって、夢見る心や純真な子供の心を失ったとか、そのことを憂えたり、童心主義を礼賛したいわけでもない。
 人間として作りあげられてきた自分、「文化」としての自分を、そんなに簡単に否定してしまっていいのか、ということなのである。

 「平成ガメラ」が復活した時、我々ガメラファンは喜んだ。“どんな形であろうと”、ガメラが再び見られる、こんな嬉しいことはないからだ。だから、物語がリアル路線に切り替わろうが、ガメラから背中のウロコが消えようが、ギャオス以外のライバル怪獣を一体も復活させなかろうが、「藤谷文子、子どもじゃないじゃん」と腹が立とうが、監督が「別にオレたちガメラファンじゃないしぃ」と公言しようが、脚本家が「『キングコング対ゴジラ』を参考にした」とライバルのコンセプトを持ち込もうが、特撮監督が「所詮カメじゃん」とのたまおうが、数々の暴言、失言について「我慢」したのだ。いやしくもプロである彼らは、不満を抱えつつも「カッコイイ」ガメラを現代に蘇えらせてくれたのだから。
 それでも彼らは、いったんは「許しがたい」暴挙に出ようとした。あのガメラのトレードマークである「回転ジェット」を「リアルじゃないから」と外そうとしたのである。それが会社の反対にあって渋々復活し、結果的にそれは平成ガメラ第一作で一番燃えたシーンになった。これがガメラファンの溜飲をどれだけ下げたことか。

 映画として、平成ガメラの方が昭和ガメラに比べてはるかに見応えがあるのはわかる。普通に特撮映画ベストテンを選べば、昭和ガメラは一本も選ばれなくても、平成ガメラはランクインするだろう。しかし、映画の完成度と、「好き」度、あるいは自分を作ってくれた何かに対する愛情度、感謝度とは、必ずしも比例はしない。特撮ファンが昭和ガメラシリーズで評価するのは、せいぜい『大怪獣ガメラ』『大怪獣決闘ガメラ対バルゴン』『大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス』までである。私も、特に映画ファンでない人に「面白いよ」と勧めるならギリギリここまでである。しかし、登場する子供たちが大活躍し、ガメラの窮地を本当に助けたのは、実は第四作の『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』以降なのだ。
 『バイラス』でスーパーキャッチ光線を反転させ脱出するアイデア、『ジャイガー』でガメラ体内の幼虫を退治するアイデア、どれもありきたりなもので今の若い人にはつまらないと感じられるかもしれない。けれど、我々が当時あの映画を見ていたとき、私たち「子供」は、確かにあの子供たちと「一緒になって」ガメラを助けていたのだ。

 唐沢俊一氏の『ガメラを作った男―評伝 映画監督・湯浅憲明』を読むと、湯浅監督はかなり計算高い人で、子供を主人公にしたのも、ゴジラの後発作品で二番煎じの謗りを受けつつも客を呼ぶための「策」であったことが語られている。こういう記述を見るとすぐに「商業主義」と非難する人も多いが、これはそういうレベルの話ではない。安易なキャラクター造形力では、たとえ子供を主役にしたところで、子供の共感を得られるものではないのだ。
 湯浅監督は決して子供を「無力な存在」としては描かなかった。大人では気がつかないちょっとした知識、感性、それだけでも充分大人顔負けの活躍を見せてくれること、いわば江戸川乱歩の小林芳雄少年や明石一太郎少年の末裔としての少年像を、そこに描いてみせてくれていたのだ(あのね、大人の知識持ってるのに姿は子供、なんてインチキとは違うんですよ)。
 いつもは、誰か好きな役者さんや監督さんが亡くなると、ネットをあちこち散策して感想を読んだりするのが常なのだが、今回はやめた。なんかねえ、半可通なオタクがヘタに昭和ガメラを「分析」して貶すのを見たりしたら、さすがに泣きたくなりそうだから。

 昭和46年、私は大映の倒産を学校帰りの道端で、友達から聞いた。
 ガメラがもう作られなくなることも。

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07月20日(火)
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