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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■鷺沢萠の自殺と、人質解放
 ホームページの日記を見ていると、ここのところずっと風邪に悩まされていたようである。体力が衰えていたところにもってきて、急激な発作に襲われたものか。やりきれない。ここのところの連続する訃報にかなりうちのめされてきていたけれど、とどめをさされた気分である。
 若死にだけれど、もう35か、という印象が強い。デビューが18歳、高校3年生のときで、第一短編集『帰れぬ人びと』の巻頭に付せられている写真は化粧っ気もないのに瑞々しい美しさに輝いていて、小説を読む前からちょっと惚れてしまっていた。結婚前の話だから、女房に文句言われても困るが。その頃のイメージが定着していて、最近の『週間ブックレビュー』に出演している時の急激に老け込んだ表情などを見ていると、仕事、無理しすぎてるんじゃないかなあ、と勝手に心配していた。また私の不安が当たったようなものである。誰かを心配すること自体が不幸を呼ぶのかという迷妄にとらわれてしまいそうで苦しい。
 若くしてデビューした作家には、常に「若い感性が」とか「透明感のある」とかいう形容が付いて回る。けれど処女作の『川べりの道』を私が一読して感じたのは、「なんて老成した文章だろう」というものであった。
 女を作って家を出て行った父と、23歳の姉と15歳の弟との確執。少年は月に一度、姉に命じられて父の家まで養育費を受け取りに行くが、それは父に対する姉のささやかな復讐であった。父と愛人の家庭はそのために諍いが絶えない。少年は父に会いたいという気持ちと、自分が火宅を誘導している思いとの間で葛藤する。姉が引っ越しのどさくさになくしたと思いこんでいるガラスの器――それを父の家で見つけた少年は、こっそりと盗み出し、川べりに捨てる。
 設定もそうだが、文章も乾いたハードボイルドを読んでいるような印象だった。最近の綿矢りさの『蹴りたい背中』の「軽さ」に比べたら、同じ十代の少女の文でも、鷺沢さんのそれは「切なさ」よりも「やりきれなさ」が漂う。主人公は十五歳の少年でありながら、こんなことを思う。
 「あり余るほどの幸福のもとでしか生きていたくない。そう思うことはそれほど傲慢なことだろうか。そう思うことはいけないことだろうか。(中略)たくさんの人たちの顔が浮かぶ。何千人、何万人という「生きている大人たち」を思う。奴等は、今俺が思っていることなど超越してしまったというのだろうか。それぞれに何かしら意味や理由を見つけて――。そんなはずはない。そんなことがあるわけはない。奴等は『超越』したのではない、あきらめてしまったのだ。生きているのではなく生きながらえているのだ」
 一昔前の十五歳なら、これくらいのことを考える力は充分あっただろう。大人への呪詛を真剣に語ることもできただろう。けれど、今時の若者の大半はこの程度のエネルギーすら持ってはいない。自分をそのように追いつめることから逃げるずるさは身につけているが。だから鷺沢さんの文章は私には「古臭く」感じられたのだ。今どき、こんな子供はいない、と思われた。けれど、それが決して非現実的に感じられないのは、その呪詛が作り事ではなく、鷺沢さん自身の叫びであったからだろう。
 うまいな、この人、と思ったのは、少年がなぜガラスの器を捨てたのか、心理描写を殆どしなかったことだ。少年はただ、「これから夏が始まるのだ」と思うだけである。この結びの一文で私はまた鷺沢さんに惚れた。
 鷺沢さんには、そういうほどよく「抑制された」作品が多い。ご本人はインタビューなどに答えて「マシーンのように書いていただけ」「全然オトナじゃない」と謙遜されていたが、人が時として行う衝動的な行動。それは本質的に描写それ自体を拒否する。そこでムリに描写を試みる者が失敗に陥るのだが、その愚から鷺沢さんは美しく回避していた。「機械的」と仰ってはいるが、それが鷺沢さんの自然体であったのだと思う。

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04月15日(木)
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