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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■『嗤う伊右衛門』とうどん喧嘩
 しげ、ふてくされたようにがむしゃらにうどんをかきこみ始める。よく噛んで食ってないのは見て分かるから、空気も一緒にかなり飲みこんでいる。これではすぐに腹一杯になってしまうし、けれど空気が抜ければあっという間に空腹になってしまう。まるでムダが多い食ベ方なのだが、何度注意してもがっついた食い方しかできないのである。
 案の定、食べきれなくなって、息をつきはじめる。それでもメシを作ってもらえなくなるのはいやなのだろう、休み休みしながらやっと全部食べ終わった。見てるだけで鬱陶しくてかなわないが、この因業な性格、もういい加減で改まらないものか。


 キャナルシティAMCで、『嗤う伊右衛門』朝一回だけの上映を見る。2月7日公開だから、まだ上映三週間も経っていないのに、福岡で上映しているのはキャナルだけになってしまった。客入ってないんだろうなあ。多分今週で打ち切りになるだろうから、退院が早まらなかったら見られなかったわけである。何とか滑りこみセーフ。よかったよかった。
 しげは「怖いからイヤ」だと言って付き合ってくれなかったが、原作は京極夏彦である。基本的にはミステリーなので、ホラー映画、怪談的な怖さはなかった。これだけ人間的な魅力的に溢れた岩と伊右衛門を描いた作品もそうそうないから、見りゃよかったのに。
 お客さんは二、三十人ほど。カップルが多い。平日の朝だってのになんでだ。京極ファンかなあ、唐沢寿明ファンかなあ。蜷川幸雄ファンってのはあまりいなさそうだけれど。


 帰宅して,ネットを覗いてみると、「お気に入り」に入れている人の日記の中に、ある「おたく系アーティスト(具体名は挙げず)」のことをキライ、と書いてあるものがあった。これ,あの人のことかなあ(^_^;)。「アーティスト」という言い方から思いつくのは、あの人くらいしか私は思いつかないのだが。
 もしそうだとすれば,なかなかクセのある人だから、嫌いな人がいても当たり前と言えば当たり前だろう。どこぞのマンガでもその人をモデルにしたキャラクターを出して扱き下ろしていたし。
 確かに私も、あの人(がその人を指しているとすれば)の作品は、決してオリジナリティがあるものだとは言えないと思っている。いや、芸術がそれを見る者に何らかの形で快感を与えることを目的としているとすれば、その人の作品は恐らくその人自身も自覚していることだと思うが,全く逆のベクトルを“狙って”いる。
 これはどういうことだろう、と以前から不可解に思ってはいたのだ。見る者を不快にすることを目的とした芸術というものがありえるのだろうかと(ピカソの『ゲルニカ』などのような「告発」を目的としたものは除く)。
 ああ、これは「パロディ」なんだな、と気付いた時点で私自身の疑問は氷解した。もちろんパロディとして考えた場合でも、そこに表現されたものが稚拙である,と批判することはできる。しかし、基本的にそれがパロディとしての形式を持っていることは事実である。パロディは、その対象となるオリジナルなものを、たとえ製作者の意図はどうあれ、何らかの形で破壊し再構築する。オリジナルなものに強い愛着を持つ人の中には、率直に怒りを表明する人もいると思う。
 しかし,実は全ての芸術は「パロディ」としての性格を持つものなのだ。完全なオリジナルなどというものはありえない。先人の技術や感性の模倣、それなしに芸術はありえないし,また、その中から自らのオリジナルを作り出そうとすれば、過去の作品の破壊は避けて通れない道である。
 私は、その人の作品は「まだ破壊の仕方が足りない」と思っている。思いきりデタラメをやり、破壊しているように見えて、実はまだ「遠慮」がある。だから中途半端な出来のもので留まっているのだ。若くして成功したことが、その人の進歩を阻んでいる面も大きいと思う。しかし、道を踏み外しているわけでは決してない。自らの中にある既成のものを破壊し尽くした時、本当に「面白い」作品を創造する可能性もあるだろうと思うのだ。
 でもそのためには1回潰れた方がいいこたいいんだよな(^o^)。



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02月26日(木)
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