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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■入院日記10/さらば関西人
 核家族化と福祉施設の充実が、老人や病人、障碍者に日常接することのない人々を増やしている。そういう人々には、「老人のいる家庭」自体が我慢のならないものに感じられるのであろう。この関西人は、ある意味自分の気持ちを偽ることのない、正直な人であるのだが、自分が病人に向けた嫌悪が自らに撥ね返ってくる可能性については思いを致せないでいる。そちらのほうがよっぽど精神的な片輪なのではなかろうか。

 先頃亡くなった松田修氏は、近世文化を研究をする中で、例え「蜘蛛男」や「一寸法師」のような「見世物」という形であっても、障碍者が社会的に認知されている状況があったことを示唆し、現在の、言葉狩りを含めて、「差別を許さない」という美名のもとに、実質的には障碍者の活動の場を奪い社会から隔離している状況を、痛烈に批判していた。近年ようやく主張され始めたノーマライゼーションのあるべき姿を、20年以上前から発言していたのである。
 人はみな、自らも含めて障碍者である。健常者などというものは存在しない。そういう認識を人が「持ちたくない」のは、何らかの形で他人に対して心理的に上位に位置しなければ精神の安定を図れない人間の心の弱さである。しかし、バリアフリーの理念が浸透し、現実として老人が、病人が、障碍者が社会に参画して行ける環境が整っていけば、人はまた別の精神を安定させる方法を強制的に図らねばならない状況になっていくのではないか。
 老人や病人や障碍者は、自分が他人に迷惑をかけているなどと、ヒクツになってはいけない。どんどん迷惑をかけていいのである。それを引き受ける義務は、社会そのものにあるのだから。

02月11日(水)
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