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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■サヨナラの季節/『のだめカンタービレ』3〜6巻(二ノ宮知子)/『ホントの話』(呉智英)
もちろんヒロイン「のだめ」ちゃんの不思議少女(と言ってももうハタチになっちゃったんだろうけど)ぶりっつーか大迷惑ぶりが暴走しまくってるからこそここまでドラマが盛りあがってることも忘れちゃいけない。Sオケの再公演じゃ、マングースの着ぐるみ着てピアニカで「ラプソディー・イン・ブルー」吹いてるんである。それだけふざけていながら(と言っても本人は天然なので大マジメ)、千秋のピアノ演奏を聞いて無性に「ピアノ弾きたい!」と音楽に目覚めるあたりの展開も感動ものである。でもいくら興奮したからって、妙齢の女性が「ムキャー」なんて叫ぶのはどういうものかな(^_^;)。もちろんのだめのことだから千秋に曲を合わせてもらったらすぐ安心して食欲遊び欲に戻っちゃうんだが(^o^)。
でも一つだけ難を言えば、クラシックにゃ詳しくないから、いろんな曲が演奏されてもそれがどんなんだかシロウトにはピンと来ないことである。作者の二ノ宮さんはラフマニノフを2ヶ月も聞きながらマンガ描いてたそうだけど、ラフマニノフったって、私が思い浮かべられるのは、マリリン・モンローの『七年目の浮気』くらいのものなのである。私の知識ってホントに映画とアニメからしか得てないな(^_^;)。
呉智英『ホントの話 誰も知らなかった現代社会学』(小学館文庫・560円)。
ニッポンは自由の国なのかどうかということをマジメに考え出すとなかなか微妙な問題がある。まあアレやコレやとタブーがあることは事実なんだけれども、それを全く活字にできないかというとそうでもなくて、かと言って圧力が公的私的にないかというとそうでもなくて、要するにどっちなんだと頭を抱えてしまうことがいっぱいあって、なにかモノを言おうと思えばひと苦労もふた苦労もさせられてしまう。
「人権と民主主義について」「ナショナリズムについて」「民族差別について」「現代人の愛について」「教育とマスコミについて」。
呉さんが立てた項目の内容は、どれも日常的に会話され論議されていて、そこにはタブーなど存在しないように見える。
けれど、例えば第十一講での呉さんと趙宏偉氏との特別対談『「支那」か「中国」か』一つを取ってみても、こういうお互いの意見の論拠を示してキチンと論議した例がどれほどあったかと言えば、甚だ心許ない状況だったのではないか。
「日本でももっと議論がなされるようになればいい」とは、呉さんならずとも、折りに触れかなり多数の人々が主張している意見ではあるが、さて、現実にはせっかく行われた論議とやらもたいていはお互いの主張をぶつけ合うだけでモノワカレに終わってしまっている。『朝生』が一度でも結論とやらを出せたことがあったか(^_^;)。
「和をもって尊しとなす」の精神は現代日本にもしっかりと生き残っているが、つまりは「論理」などでは人心をまとめることなどできない、呉さんはいやがるかもしれないが、意見の対立があれば「理屈抜きで」一方が一方に合わせるという形でその場を収めてきたのが日本人の取って来た選択であった、ということなのである。
もちろんそれで全てが解決するわけではない。いつまでも飽きもせず片方が片方に合わせることを続けていれば、当然ストレスは溜まるし、そこに「ほころび」も生まれてくる。そのほころびが修復できないところまで来れば、お互いの感情は爆発してしまう。まあ個人同士のトラブルならばモノワカレになったところで大勢に影響はないが、これが国家単位の問題になったり、「世論」を巻きこむような事態になれば、コトは単純に傍観ばかりもしていられなくなる。気がつかないうちにとんでもない「流れ」の中に巻き込まれて逃げ出せなくなってしまうような状況も起きてこよう。日本人は自分たちの方がよりストレスを感じているように思っているかもしれないが、それは中国人の方だって変わりはない。
本来、そうならないために「論議」をしなければならないのだが、如何せん、日本人は論議を放棄してきた歴史が長過ぎた。おかげで「何のための論議か」ということを確認しつつ話を進めることすらできない。呉さんも苦労する道を歩いているなあ、という印象である。
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08月26日(火)
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