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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■多分今日は死にかけていた/映画『千年女優』/『ロード・トゥ・パーディション』
 で、見た結果はどうかということなんだが、「惜しいなあ」というヒトコトに尽きる。『パーフェクトブルー』も余り予算がなくてスタッフは苦労したらしいが、本作も制作のスケジュールやらなにやら、おそらく相当キツキツの中で作ったんだろうな、というのが察せられる出来なのである。作画のいいところとよくないところにムラがあるのだ(殺陣のシーンなんかは恐らく『少女革命ウテナ』の作画監督を務めた本田雄の担当だろう、迫力ある出来だったのだが、日常風景になると表情が止まることが多い)。

 映像制作会社「VISUAL STUDIO LOTUS」の社長、立花源也(飯塚昭三)は、かつて一世を風靡したものの、30年前、忽然と銀幕から姿を消した大女優、 藤原千代子(荘司美代子)のドキュメンタリーを作るために、人里離れた彼女の山荘を訪ねる。
 しかし立花にはその目的のほかに、もう一つ、彼女にあるものを手渡す約束をしていた。それは古びた小さな鍵。かつてなくしたその鍵を手にしながら、千代子は過ぎ去りし日々の思い出を語り出す。

 『千年女優』の「映画」としての面白さは、この映画の「語り口」にある。
 立花とカメラマンの二人は、何の違和感もなく千代子の語るかつての人生と映画の中に入りこみ、ときにはいくつかの役を演じつつ、虚実皮膜の境を流浪する。ここで物理的な整合性を考えてしまったら、この映画を楽しむことは不可能だろう。これはあくまで「千代子の語る過去」であって、現実の過去ではないのだ。トシを取った千代子には、既に現実と虚構の区別も曖昧になっていただろうし、そう考えれば時代的な矛盾も特に気にならない。
 彼女の語る人生が、そして映画こそが彼女にとっての真実であり、藤原千代子を女神と崇め奉る立花は、ウソと知りつつ彼女の妄想に付き合っているのである。もしも私が、20年前にこの映画を見ていたら、その斬新な演出に感嘆し、絶賛の声を挙げることも吝かではなかったろう。

 けどなー、もう押井守を見ちゃったあとだしな〜(^_^;)。「どこからどこまでが現実か虚構か」とか、「これは現実ではなくて誰かの虚構の中かも」ってのは、まあ押井さんが嚆矢ってわけでもないけれど腐るほどあの人がやってきてるしなー。で、この映画、結局は千代子の妄想の中だけでのお話、ということが早々にわかっちゃった時点で、ドラマとしての求心力は、どんどん減殺されて行っちゃってるのだ。ドラマを後半まで引っ張っていく「謎」がないと、映画を見てても観客は「オレって、今、何を見せられてるの?」って気分になっちゃうんだよ。ここが押井守と今敏との才能の差なのかな。いや、「惜しい」なあと言ったのは実はシャレだったんだけど、実際、村井さだゆきと今敏、押井守の影響をヘタなとこだけ受け過ぎなんだよねえ。

 千代子がただひたすら、かつて出会った「鍵の君」を追いかけて映画に出演し続けてきた、それを描く構成自体を否定するつもりはない。しかし、見ていて何が辛かったかって、『うる星2』のあたるのセリフじゃないが、「自分の夢に勝手にオレを巻き込むなあ!」なんである。ともかく狂言回しのつもりかなんだか知らないが、立花の扱い方が徹底的に悪い。立花はいったいなんのために彼女の妄想に割り込んで行ったんだ? 千代子に対するただの賛美者、追従者なら宗教の信者と変わらんじゃないか。そんなキャラを妄想の中に登場させたって、ドラマが平版になるばかりだ。
 映画女優に恋をして、映画の中に入りこむ、というのなら、ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』くらいに徹底してくれないとつまんない。所詮、立花は千代子の妄想に付き合ってるだけの傍観者に過ぎないから、物語に何か影響を与える訳でもなんでもない。それじゃ物語は予定調和のままで進むだけだ。壊れ行く千代子の妄想を食いとめるなり反逆するなりしてこそドラマになるのに、「千代子さ〜ん」と泣かせるばかりか。脚本家、もちっと映画を見たらどうだ。


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10月19日(土)
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