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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■今日はノロケじゃないと思う/『プリンセスチュチュ』10AKT.「シンデレラ」/DVD『鬼畜』ほか
つまりは「物語の主人公はあのあとどうなったか」である。おとぎ話は近代小説のように心理を描写することに主眼を置いていないし、とりあえずの結末をつけたものが多いから、納得しがたい結末を迎えるものも多い。ペロー童話では『赤頭巾』の狼は、赤頭巾を食って、それでおしまいである。グリム童話でその結末が改変され、狼が猟師に退治されることになるのも、「これで終わっていいのか」という疑問に答えたためであろう。もちろんペローが昔話を再録した頃には、この物語は「危険なところへ行ってはいけません」と少女をたしなめるために語ればよかったのだから、赤頭巾が食われておしまい、でもよかったのである。
『プリンセスチュチュ』はもちろん『みにくいあひるの子』をモチーフにしている。しかし、みにくいあひるの子は白鳥になれて幸せだったのか。というより、あひるは白鳥に比べてみにくいのか。昔はともかく、今の子供たちは、当然そういう疑問を持つだろう。となれば、あの物語は決して「めでたしめでたし」ではないし、「新たな」結末を求めるのである。
とは言え、その「お話の続き」を求めてるの、ドロッセルマイヤーだからなあ(^o^)。おとぎ話ごたまぜのこの物語で、さて、どんな結末が描かれていくことになるのか、相当ヘンテコなものになりそうで、それを期待して見てるんだけれども。
で、猫先生は山羊先生から逃げることが出来たんだろうか(^o^)。
こないだ見た田中登監督版の『鬼畜』が物足りなかったので、改めてDVDで野村芳太郎版『鬼畜』を見返してみる。
やっぱりと言うか、レべルが違うねえ。冒頭から流れる音楽も故・芥川也寸志入魂の一曲だものなあ(よく『砂の器』を挙げる人がいるが、あれは芥川さんは「音楽監督」をしてるだけであってテーマソングを作曲してはいない)。
テレビドラマ版の方の失敗は、子捨ての主導権を父親の方に持たせちゃったことの方にあるんだなあ、と気がついた。やっぱり妻の岩下志麻に責められ詫びて子を捨てる緒形拳の情けなさがいいのだ。
『大和物語』に、姨捨山伝説を扱ったもので、古典には珍しく、貧困からではなく、妻の姑への憎しみから夫が育ての親を捨てさせられる話がある。この妻というのがとことん性悪で、あることないこと夫に吹きこんで、元は優しかった夫を変心させてしまうのである。妻が夫を手玉に取るルーツ、こんな昔からある(^_^;)。夫は月を見て、母親を山に捨ててきたことを悔やむのだが、この『鬼畜』で緒形拳が、「東京タワー」を見てそこに娘を捨ててきたことを思い出すシーンに似てないか。もしかしたら『大和物語』を参考にしてる面があるのかもな。
そして、今回見返して気が付いたのだが、岩下志麻を憎んで睨む子供の眼つきと、同じく妻に責められて恨みがましく睨み返す緒形拳の眼つきと、この二つの表情が、構図も間も全くそっくりに撮られている。つまり、再三繰り返される岩下志麻の「あんたの子だって? 似てないよ」というセリフを、演出が否定しているのである。まさしくこの物語が「実の子殺し」であることを強調しているシーンであった。いや、凄い。
ネットを散策してみたら、やっぱりこの物語の結末を「子供は自分が殺されかけたのに、親を庇った」と見ているアタマの悪い客が多いことを知って唖然とした。ちゃんと子供、笑いかけてきた緒形拳に対して「父ちゃんなんかじゃない」と拒絶して言ってるのになあ。「なんか」というのは親を庇うときに使う言葉じゃないじゃん。あれはもう、子供にしてみれば親を親として認めることすらできない感情の高ぶりの表れなんであって、庇うとか庇わないとか、そういうレベルの話ではないのだ。だから緒形拳も「許してくれ」と泣きながら子にすがることになるのだよ。日本語理解できないのか?
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10月18日(金)
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