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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■ウソから出たアホウ/『追悼の達人』(嵐山光三郎)ほか
作家の追悼文、弔辞から、生前の作家の実態を浮き彫りにしようという試み。前作の『文人悪食』も面白かったけれど、これはそれを更に上回る名著だろう。 『お葬式』という映画がある。故・伊丹十三の監督デビュー作だが、伊丹氏が「葬式」を題材に選んだのは、それが死者を悼むために行われるのではなく、生者同士がお互いの人間関係を再確認するための場であるからだと喝破したからだということである。まさしく「死」はその人自身のみならず、残された人々の生き方まで確定するのだ。その意味で、「追悼文」に着目した嵐山氏の慧眼は称賛に値する。
人が死んで、その人を悪く書くことは普通はできることではない。けれど死んだのはただの人ではなく作家、画家、編集者といった著名人だ。残された人間にしてみれば「惜しい人を亡くしました」程度の通り一遍のコメントではすまされない。
ある者は自らの作家技術の粋を集めて褒め称え、またある者は全く逆に全身全霊を込めて扱き下ろす。必然、それは作家論となり、かつ残された人々のもう一つの私小説となる。
いやもう、彼を語りつつ、つい自らを曝け出してしまっている追悼の多いことったら。考えてみれば、この日記でも私は「誰それが死んだ〜」とやたら喚いているが、やっぱりこれも自分語りなんだよね。太宰治萌え〜のノールス女子大生を笑えんわ。
追悼文を調べていく過程での新発見も多々ある。
田山花袋の死に際に、島崎藤村が「死ぬ時の気分はどんなものかね」と聞いたというのは俗説で、実際には藤村が何も聞かないうちから花袋自らどんどん喋ったというのである。藤村は逆に「そんなに話したら疲れてしようがないだろう」と押し留めたくらいであったそうだ。
この俗説も、家族を省みず、愛欲のままに自分の姪に手をつけた藤村の汚れたイメージが作り上げたものだろう。事実、藤村は人非人であり、周囲からは蛇蝎の如く嫌われまくっていた。人間としての底の浅さが(『破戒』だって部落差別を告発した小説としてはキレイゴトで終わっている)実は藤村の人間らしさであったことが、嵐山さんの筆によって微細に分析されていく。
この過程を読み辿ることの心地よさをどう表現すればいいものか。
この本で紹介されている作家の中で、私がその著書を読んだことのない人が三人いた。
川上眉山、内田魯庵、岡本かの子である。
……そりゃイマドキは全集をあたらないとこの人たちの作品、とても読めないものなあ。
岡本かの子はもちろんあの「芸術は爆発だ」の岡本太郎の母親であり、漫画家岡本一平の妻である。小説よりも本人がなかなか奇異な人だったことは唐沢俊一氏の『すごいけどヘンな人』にも詳しい。夫と二人の愛人と暮らす生活は、本人は無邪気なつもりでも世間からはただの不道徳、異常生活としか映らない。それをかの子の死後、一平と太郎は神秘化し美化した。そのおかげだろうか、確かに、唐沢氏や嵐山氏の著書を読む以前は岡本家についての私のイメージも「芸術一家」の域を一歩も出るものではなかった。
さて、ではかの子女史はいったいどんな小説を書いていたのかと思って、ちくま日本文学全集の『岡本かの子集』中の『鯉魚』という短編を読んでみたが、これがもう、芥川龍之介の露骨なエピゴーネンである。
平家の落武者の娘を匿った寺の侍童の恋物語なのだが、彼はその事実が寺にバレてもあくまで「私は鯉を飼っているのです」と言い張る。住職の仏法問答に対して「鯉魚」とのみ答える少年の描写は静謐でひたすら美しいが、そこにあるのは純愛に対する盲目的な賛美のみで、芥川ほどの冷徹な視点はなく、やはりセンチメンタリズムに流されている。少女マンガにしたら、すごく美しい絵になりそうだが、私のような中年のオヤジには読んでてちと面映い。
その芥川との交流を描いた『鶴は病みき』も読んでみたいものだが、今は残念ながら入手し難い。批評等を読むとやはり独善的な作品らしいのだが、客観的で冷静な小説が面白いとは限らない。かえって事実をもとにしていても、作者の思いこみと妄想が事実を捻じ曲げていた方が断然面白くなっているものなのである。モデルにされた人間にはえらい迷惑であろうが。
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07月24日(水)
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