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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■ファンタジーの地平に/映画『ハリー・ポッターと賢者の石』/『バイリンガル版 ゲゲゲの鬼太郎』(水木しげる)
 この「実は高貴の出」というのは、厳然たる身分社会において、一つの理想物語として描かれつづけてきた、貴種流離譚の定型である。
 どんなに努力したって、身分の壁がある限り、報われることは決してない。もしあるとすれば、実は自分が高貴の出であるという、自分でも知らない運命が発覚した時だけだ。そんなはかない夢にしか、かつての西欧の人々は希望を託せなかった。
 この「努力よりも血」という発想、民主社会が現実のものとなった現代ならば否定されてるかというと、そんなことはない。やっぱりいくら努力したってある程度以上にはいけないという「限界」はちゃんと残ってるんである。
 だからなんとゆーか、『ハリポタ』つまんねーぞ、とは簡単には言いにくいのよ。だって、だれだって、「こんなに苦労してるのに、生涯報われる日なんて来ないんだ」って思って生きてたくはないじゃん。たとえ根拠なんてなくっても、「いつかは僕にも」「いつかは私にも」って、希望をもって生きてたいのよ。
 努力して努力して苦しんで悩んで、そんな物語なんて、自分と重なりすぎてて見てたくもない。映画は夢でしょ? 自分の夢が努力せずに叶えられた方がいいじゃない。だって、これまで散々苦労はしてきたんだから。これ以上、苦労なんてしたくない……。
 だから、ハリーがいじめられるのは10歳まで。
 あとはもうトントン拍子である。ルーク・スカイウォーカーも、たいした努力なしにあっという間にフォースを使いこなしちゃったけど、あんなの見てると、宮本武蔵の終わりなき求道がバカみたいである。
 最後には努力タイプのハリーの女友達、ハーマイオニーに、「私はただの優等生、本当に便りになるのはアナタよ、ハリー」なんて言わせちゃうんだから。
 こんな「努力したって無駄」「なにもしなくても力が手に入ったほうがいい」的な物語に熱狂してしまうほどにアチラの人々の精神は疲弊しきってるんである。

 映画が公開されて、一部のクリスチャンが、「魔法の肯定はキリスト否定である」と、『ハリポタ』を焚書したような報道があったようだが、日本では「アホか」みたいな記事でも、アチラじゃ結構深刻な問題ではなかろうか。
 神様を信じても救われない、直接自分が力を持てた方がいい、ってとこまで人々の心が変化しているのだと見たら、そりゃ、クリスチャンにとっては脅威だろう。

 そういうキリスト教社会の限界が実感できない私にしてみれば、『ハリポタ』を完全否定まではしないけれど、もちっと「努力」の方にウェイトを置いた展開にならなかったものかとは思う。でないと労働者諸君は、ホントの意味で報われはしないじゃん。おいちゃん、悲しいよ。
 どこぞの書評には「努力した者も報われる展開がある」とか書いてるものもあるようだが、「も」であって「が」でないサビシサに、自分で書いてて気づいてないのかね。

 じゃあ、振り返って見て、日本でのヒットはなんなのか。
 やっぱりみんな、「努力なんてしなくて力が手に入ったほうがいい」と考えながらあの映画を見てるのか。
 ……無意識的にはもう少し複雑な気がする。
 もちろん、『堤中納言物語』や『山椒太夫』のような貴種流離譚が日本にもないわけではないけれど、それよりも我々庶民の生活に密着している日本のスタンダードは、「高貴なものに救ってもらう」パターンなんである。
 マジメに努力してれば、いつかは「水戸黄門」や「遠山の金さん」に助けてもらえるってことだね。
 だから日本人が感情移入するのは、初めはハリーでもじきにロンやハーマイオニーのほうに移って行くんじゃないか。
 いや、私はハーマイオニーに同情しちゃったよ。

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02月02日(土)
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