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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■多分それは美しさではない/映画『ピストルオペラ』
 ……ちょっと、ここらで注を入れとかないと誤解されそうだから言っとくけどね。私ゃ清順映画を否定しようとしてるんじゃないのよ。映像だけを切り取って評価したらいけない、と言ってるだけなんだからね。

 面白いのは、今回の『ピストルオペラ』において、鈴木清順自身が、自分の映画が、映像としては決してオリジナルなものではないのだ、ということを、堂々と提示していることである。
 オープニングのタイトルバック、このCG映像がデザインから字体に至るまで、実に清順清順している見事な作りなのだが、実はこれは、『ガメラ』シリーズの樋口真嗣の手になるものなのだ。つまりここで鈴木清順は自身の映像の「模倣」を他の監督に作らせ、それを自作のタイトルバックに使うというややこしいことをやってるということになる。
 模倣が本物の中に取りこまれる。
 これがどういうことかお解りだろうか。
 自作の『殺しの烙印』の続編として作られたこの『ピストルオペラ』、この映画の最大の特徴は、これが「鈴木清順による鈴木清順のパロディ」だという点にあるということなのだ。

 ストーリー的には、確かに本作は『烙印』の後日譚という形を取っている。
 宍戸錠が前作で演じた殺し屋、花田五郎は、落魄して偽片足の平幹二朗となって現れているんだから。
 けど、よりによって、こんなに似てない俳優に演じさせる続編ってあるものかと、前作を見ていたものは誰だって思うんじゃなかろうか。人を食ってるどころじゃない、足の長さが全く違うでないの。パタリロの等身が縮んだのと同じくらい、これは全くの別キャラになっちゃってる。
 ……私も鈴木清順の作品をたくさん見てるわけじゃないんだけれども、いつも思っていたのは「このストーリーでどうしてこんな映像を作るか」ということだった。アクション映画でありながらアクション映画のセオリーを外し、情念の世界を描く話を硬質なオブジェで埋め尽くすようなパラドキシカルな映画を作りまくってきている。
 本作も「アクション映画」と言いながら、映像自体はほとんど動いていない。キャラクターを追いかけて画面が動く、なんてシーンが、極端に少ないのだ。
 まるで予算のないアニメで、「止め絵」を重ね合わせて作った作品を見せられているような印象すらある。俳優が走りまくる『太陽にほえろ』的世界とは全く違うのだ。
 なのに面白い。
 面白く見せるためのセオリーを外しているのに、ひたすら面白いのだ。
 主演の江角マキコは殺し屋のクセに動きにくい和服をまとって登場するし、ほかの殺し屋も金髪に黒マントだの、車椅子にジャージの男だの、不死身の怪しい外人だの、山口小夜子だの(^o^)、目立つやつらばかりだ。
 謎の少女は江戸東京たてもの館に住んでやがるし(^^*)。
 大和屋竺に歌わせてた『殺しのブルース』を樹木希林に歌わせたりする感覚はなんなんだろう(^_^;)。このヘンなシーン見るだけでも、入場料金払っただけの価値はあるぞ。
 こんなのを「美学」とかエラソウな言葉で評しちゃいけない。
 これは緻密に計算された「デタラメ」である。
 ヘンではあってもバカではない。
 ヘンとヘンを集めてもっとヘンにした映画だ。
 つまり、「どうしたらストーリーに忠実でなく映画化できるか」と考えていったらできあがったのがこの映画なのだ。でもそのデタラメさが心地よい。いい加減さがさわやかだ。

 ストーリーに忠実な映画と言うのは、実は観客の見方を固定化するものである。観客がカタルシスを感じているのは、安楽椅子に沈みこんでいる心地よさなのであって、自由な風を受けて空を飛翔する爽快感ではない。
 ストーリーと映像が乖離することで生まれる爽快感、自作をも変容させて映像化する、その方法論・スタイル。それこそが「清順美学」ってやつの本質なんじゃないだろうか。
 清順作品がヒットしなかった理由はその辺にあるんだろう。日本人は何だかんだ言って、自由な想像力の中で遊ぶ楽しさよりも、予定調和の物語の中に入りこんでヌクヌクする安心感の方を選んじゃうのである。
 でも、それって映画じゃないじゃん、って私は思うんだけどなあ。


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12月14日(金)
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