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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■夢の終わり/映画『王は踊る』ほか
キャナルシティあたりで上映してくれてたなら、家からもそう遠くないし、早引けする必要もないのだが、KBCシネマと言う、天神というよりは長浜に近い映画館での上映なのである。
私なら自転車で40分弱で辿りつけるが、しげが一緒だと多分1時間ちょっとはかかる。時間に余裕がないと、しげは絶対ヒステリーを起こすので、仕方なく早引けしてるのだ。ちっとは感謝してもらいたいもんだよ。
しげ、腹も減らしているので、天神ショッパーズの地下で、柳川定食を頼む。
ウナギを卵とじにしているが、ウナギ自体が薄くてそれを卵で誤魔化してる感じがしてそれほどうまくない。
最初はマクドナルドでハンバーガーを買って行こうって言ってたのになあ。
しげに『キネ旬』を見せると、「もうこれ『FF』じゃないよ」なんてウンチクを垂れる。だから私ゃもともとの『FF』を知らないんだってば。
『王は踊る』、実は全く予備知識を持っていなかったので、タイトルの「王」ってのが誰のことなのかも知らなかった。監督は『カストラート』のジェラール・コルビオ(すまねえ、この人の映画見たの初めてだ)。
アホな話で、インド映画の『踊るマハラジャ』の続編かなにかか、なんでしげは独善的で能天気なだけのお寒いミュージカル映画を見たがっているのだ、などとぼんやり思っていたのだなあ。
でも、これがもう、見てビックリ。いや、これだけ見応えのある映画も久しい。やっぱりスカスカなハリウッド映画ばかり見てちゃダメだよん。
……「王」って、“太陽王”「ルイ14世」だったんだねえ。彼が若いころバレエ・ダンサーだったとは全然知らなかった。
宮廷作曲家として揺るぎない権勢を誇っていた、ジャン=バティスト・リュリ。イタリア人である彼がフランスに帰化したのは、若き日、ともに踊ったルイ14世に対する思慕の念ゆえであった。
しかし、男色を嫌う14世は次第にリュリを敬遠するようになる。30歳を越えた王は、既に自ら踊ることもなくなっていた。それでもリュリは王を称える音楽を作りつづけ、盟友である劇作家のモリエールとも決別する。失意のうちに喀血、舞台上で死んでいくモリエール。その姿に自らの運命をも重ね合わせるリュリ。 そして、リュリの最後の演奏会に王の姿はなかった。リュリは指揮棒で誤って自らの足を傷つけ、「王と踊った足を切るな」と叫び、死ぬ。
リュリの死の床に顔を見せようともせぬ14世は、一言「今日は音楽が聞こえぬ」とだけ呟く。
リュリは本当に男色家で、14世に報われぬ恋心を抱いていたのだろうか。それが果たして史実なのか、映画上の演出なのか、寡聞にして私は判別が出来ない。
しかし、14世とリュリの、「朕に友はおらぬ」「ならば私も同じでございます。私にも友はおりません」という、「拒絶によるシンパシー」とでもいうべきパラドキシカルな会話は、見ていてかなり切ない。
臣下であるリュリは、純粋に王への恋慕を告白しただけかも知れない。しかし、14世にしてみれば、「王」に生まれるということそれ自体が、重大な「欠落」を持っているのだという事実を突きつけられたも同然である。多分、その「欠落」は、「友」だけではあるまい。
ジャン=バティスト。その名は「洗礼者ヨハネ」に因むが、リュリのみがその名を持っていたわけではない。モリエールの本名もまた、ジャン=バティスト・ポクランである。
諷刺喜劇の第一人者と評価の高いモリエールも、この映画の中では、14世に媚びを売るただの追従者である。14世の庇護を受けられなくなった後も、最後まで舞台から客席を見て「王は来られぬのか」と悲痛な声を漏らす。
つまりこの映画は、二人の「王に見捨てられた男たち」の物語なのである。
映画のラストが、この二人の死を重ね合わせるように描いているのは、彼らが殉じていたものがいったいなんだったのかを観客に対して問いかけているかのようだ。
彼らは果たして「美しかった」のだろうか。
なんだか辛気臭い書き方になっちゃったけど、これって、本当に当時の歴史的事実なの? と言いたくなるようなエピソードも満載で、見ていて退屈しないどころか、結構笑えちゃうのだ。
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09月07日(金)
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