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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■あえて美人殺しの汚名をきて/『「彼女たち」の連合赤軍』(大塚英志)
で、この卑怯な手段を私に仕込んだのが誰かと言うと、他ならぬ私の母親だったりするのだ。しかもウチの母親が更に卑怯だったのは、そんな卑怯な手段で他人を言い負かしていたくせに「私は間違ったことは言わない(から論争にも負けない)」と断言していたことだ。
子は親の鑑である。
しげが私との口ゲンカで常に負け続けるのも、こんな親に育てられた男とつれあいになった運命のなせるワザだと思ってもらいたい。
で、気になって調べてみた永田洋子の写真だが、ちょっとお袋に似ていた。
美人ではないかもしれないが、不美人かどうかというのも主観だろう。大塚が「美人」と言った重信房子の若いころの写真も見たが、これも美人か不美人かは時代の雰囲気に左右されているような気がする。
月並みな言いかただが、彼ら彼女らの反社会的活動は、やはり時代に躍らされていただけではないのか。
冗談はさておき、安保闘争以来の一連の学生運動の過激化は、幼いころの私にはどうにも理解のできないことだったが、テレビで東大の立てこもりを見ていた時も、ハイジャックやあさま山荘事件を見ていた時も、私の父の感想は一言、「バカ」であった。
父は彼らよりひと回り上の世代ではあったが、戦後の社会主義革命思想に対しては、ある種のシンパシーを感じていたのだと思う。方法には賛同できないが、理念には、と言ったようなものなのかもしれない。
しかし、彼らの内実がそういった理念とは縁遠い、ただの嫉妬などの感情の発露にすぎなかったことを知ったら、いったい父はどう思うだろうか。何しろかつて彼らを「バカ」呼ばわりした父は、今や「あのころの学生のほうがエネルギーがあったね」と言って憚らないからである。
それって、オウムやバスジャック犯を擁護するのと変わらないってことに気付いてるか? 親父よ。
大塚英志は、永田洋子が少女漫画風のイラストを描いていることから始めて、80年代のフェミニズムと、サブカルチャーとしてのフェミニズムを対照させながら、それぞれの「危うさ」について警鐘する。
確かに「君ってキレイだよ」の一言すら言わせぬ女性の性を封印するかのようなフェミニズムは狂信的といえるし、萩尾望都や大島弓子ら、24年組のマンガが女性の性を否定しつつ発展してきたことは事実であろうが、それをいっしょくたにしてしまう論法にはかなり無理がないか。
大塚はマスコミが永田の犯罪を不美人ゆえの嫉妬に収斂させていくことを批判しているが、実際、その通りである可能性の方が高いと思うがどうか。
更には「宮崎勤事件」の、「オウム真理教事件」の、サブカルチャーが生み出したと言っても構わぬ事件について、その「矮小さ」について「分りやすい」と言いながらも「笑い飛ばせない困難さ」があると、矛盾したもの言いをしてしまっていることを大塚はどう考えているのか。
その程度の分析なら、彼らを「バカ」と言い切りつつ、「エネルギーがあった」と評価してしまう私の父と実は同レベルなのである。
連合赤軍事件の犯人たちや、オウム真理教事件の犯人たちについて、分析を施してやること自体、彼らを甘やかしてしまう大塚の日本的で単純な「母性」に他ならない。
大塚は気付いていないかもしれないが、傍目にはそれはとても「気持ち悪いこと」なのである。
多分大塚は、一つ時代が違えば、あるいはきっかけさえあったなら、彼らの中に名を連ねた可能性があったことに対して自分自身を許したいのだ。『多重人格探偵サイコ』の残酷描写も、自己弁護、自己正当化のためだったかと思うとやや興醒めである。
大塚もまたコミュニケーション不全症候群のオタクなのである。
「常にぼくの関心はなる者の歴史化に向けられる」とする大塚の意見は、一見オタク擁護のように見えて、自分をその歴史の中に含めようとしない点においてただの差別化である。
「オレはオタクだ!」と叫んだ後でないと、まともに大塚の言説を受けとめる者は、少なくとも彼が擁護しつつ甘えようとするオタクの中からは現われないと思われるがどうであろうか。
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06月01日(金)
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