ID:104863
G*R
by K・カヲル
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■絶対的な響きをもって鐘の音は時を告げた 10
 ギンは、何も答えない。乱菊は、小さな声で、けれどはっきりとした響きで問う。
「あんたは、あたしのことが邪魔だったの」
 乱菊の声が震えている。
 この部屋が隔絶されたかのように、外がとても遠くなったように音が消え、ただ乱菊の声だけがギンの耳に届いていた。泣きそうや、とギンは思う。けれどギンは身動ぎもせず、触れそうで触れない距離で乱菊の隣にいた。
「ねえ、あたしのことが、邪魔だったの。どうでもよかったの」
 繰り返される乱菊の問いに、肯定の返事をしなければならないと思うのに、ギンの喉は何か重いものに塞がれたように何の言葉も発せられない。ここで肯定すれば、乱菊は自分から離れて安全な暮らしができるだろうと思うのに、ただ一言、そうやと必死で声を出そうとしても、言葉がギンの胸の奥で引っかかっている。
 ギンは、昔から確かに乱菊から逃げ出したかった。しかし、乱菊を邪魔だとも、どうでもよいとも思ったことは一度もなかった。逃げ出したいと思うことだって、乱菊が疎ましいわけでも憎いわけでもなかった。ただ大切で、大切すぎて、ギンにとって乱菊は不可侵の存在で、美しい世界のすべてで、汚すことも壊すことも汚れることも壊れることも恐ろしくてただそれだけで。

 自分の中にあるその想いがあまりに強すぎて、ギンの口はこれ以上の嘘を言ってくれない。捨てられることも嫌われることも覚悟し続けていたはずなのに、最も大事なこのときに、ギンは何も言えないでいた。

 乱菊が息を詰めて自分の返答を待っている。沈黙が重く、ギンは焦った。ここで乱菊を手放さなければ、乱菊は、自分を飲み込もうとしている渦に巻き込まれるだろう。ギンはまだ、その渦の本当の姿を具体的には分かっていなかったが、それでもあの血の臭いは確実に自分を取り巻いていることを直感で知っていた。あの男は自分を逃がさない。自分はあの男から逃げられない。それは確信としてギンの中にあった。
 自分の中で言葉を探していると、ふと、ギンの鼻孔を甘い匂いがくすぐった。途端にギンの体の奥がぞろりと反応する。そういえば乱菊の髪は少し湿っていて、肌はしっとりと普段よりもきれいだった。乱菊が風呂に入った後であることに気づき、その考えに自分の体が頭が制止する間もなく反応することにギンは戸惑った。そんな場合ではないだろうと軽く頭を振って、そして、気づいた。
 ギンは息を止め、大きく吐いた。
 嘘の言葉よりも、ずっと強力に乱菊を納得させること。
 決して真実ではないけれど、嘘ではないから、勘の良い乱菊が信じること。
 ただそれをするだけで、確実に乱菊が自分を拒絶すること。

 数えるのも嫌になるほどの年月、隠し通してきた乱菊への、欲情の部分それだけをそのまま乱暴に解放してしまえば。

 それはギンにとって、自分が大切に大切にしてきた世界を叩き壊すことだった。不可侵の存在を、汚れた手で引きずり降ろすことだった。
 乱菊にそんなことはできなくて、そんな乱菊を見たくはなくて、ギンは長い間、自分の中に居座る嵐のようなそれを押し殺してきた。
 けれど、それさえしてしまえば、おそらく乱菊は自分から離れるだろう。
 そんな乱菊を見て、壊れた世界を手放して、自分も諦めがつくだろう。
 もうこれまでとは環境が違う。ギンと乱菊は二人きりではなく、これから先、沢山の人と出会う。乱菊には友人ができるだろう。恋人もできるだろう。ギンが離れたとしても乱菊は一人きりになることはない。乱菊は別の世界で生きていく。そうして人といれば、そのうちに傷は癒えていくはずだ。
 乱菊が自分ではない別の誰かのものになるところなんて、ギンは見たくはなかった。乱菊が自分との世界ではない、別の世界で笑う姿なんて、ギンは見たくはなかった。
 それでもギンは何よりも、乱菊が殺されるところを見たくはなかった。
 傷ついても、壊れても、生きていてくれればそれでよかった。生きてさえいれば、いつか、傷は塞がる。新たな世界に生きられる。ギンのいない世界で、安らかに幸せに生きられる。ギンではない、知らない誰かにだとしても、乱菊は微笑んでいられる。

 生きてさえいてくれれば。


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04月26日(水)
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