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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」

いや〜、面白い!敬愛する映画友達の方から、哲学には疎い私にもわかると聞いて、観てきました。ジャン・ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールの事実婚関係は、広く知られていますけど、あのフェミニストのボーヴォワールが、これほど「普通の女」の哀しみと苦労を背負っていたとは。それでもサルトルに負けじと、ずっと背筋を伸ばして相対するボーヴォワールに、同性としてとても共感出来ました。監督はイラン・デュラン・コーエン。
1929年、ソルボンヌ大学で天才と謳われていたサルトル(ロラン・ドイチェ)。同じくソルボンヌに通う女学生ボーヴォワール(アナ・ムグラリス)を一目見て、その美しさと知性に心を奪われます。強引なサルトルの求愛でしたが、二人の仲は深まり、一緒に暮らすことに。しかしサルトルは「作家がひとりの人だけを愛するのはダメだ」と、結婚後も自由恋愛を謳歌する契約結婚を申し入れます。女性にとって抑圧された結婚生活が当たり前の時代に疑問を持っていたボーヴォワールは、戸惑いながらもサルトルの申し出を受け入れます。
私の知っているサルトルと言えば、「実存主義」(意味は良くわからん)の言葉と、やぶにらみで如何にも哲学している顔つき、そして小柄です。この作品のドイチェは童顔で幼く見え、やはり小柄。サルトルはボクシングをやっていたみたいで、ドイチェも体付きは締まっており、小柄で賢い男の色気がそこかしこ漂っています。最初こそ、えぇ〜この子がサルトル?でしたが、これが意外と適役でした。
とにかくサルトルは、ひっきりなしに女がいます。そりゃね、「人間は自由という刑に処せられている」なんて言う男が、「君なしではいられない」と、耳元で囁くわけですよ。その知性だって「サルトル」なんですから、似非じゃぁない。自分には縁のない男、憧れるが花、とは思い切れないよなぁ。私もインテリ男に弱いので、よーくわかるわ。しかしサルトルがこんなに女のお尻ばっかり追い掛け回しているとは、知りませんでした。
一方ボーヴォワールは、上流階級の出身ながら、現在は貧乏生活。威圧的な父親に平伏して生きている母親には疑問がいっぱいです。ボーヴォワールは女性にとっての結婚生活を「男の召使いになる事」と言い切ります。その時代でも、召使いではなく妻となっていた女性もあったでしょうが、やはり親が子供に与える影響は強いようです。
陰日向になり、サルトルの執筆活動を支えるボーヴォワール。とっかえ引っ変えサルトルが女を変えるのに対し、彼女は教え子と同性愛関係に。しかしサルトルに「男性はあなただけよ」と、複雑な女心の本音を見せます。この辺から、ずっと遠い、遥か彼方の存在だったボーヴォワールに共感する私。
嫉妬に疲れはてたボーヴォワールは、サルトルにセックスはもうしないと宣言します。愛は愛でも性愛がなければ、この煉獄から抜けられると思ったのですね。しかし彼女の願いは叶えられず、やはり嫉妬に身を焦がし、何度も別れを考えます。「彼とはダメになると言った、お母さんたちは正しかった」と、彼女は自分の母に愚痴ります。しかし夫を見送った母は、「それは違うわ。子供もおらず結婚もせず、でもあなたたちは今も別れずにいる」と。そして「お母さんはお父さんを愛していたわ。お父さんもお父さんなりにね」と語ります。あれほど夫から抑圧されていたのに。娘に男女の愛は色んな形があり、当事者にしかわからないと言いたかったのでしょう。
アメリカ旅行で知り合った作家のオルグレンと恋仲になるボーヴォワール。誠実で女性を守りたいと願う、平凡な男性的魅力に溢れた人で、彼に求婚されます。反対するサルトル。どこがいいのか?と。「彼は私を愛してくれる。子供が欲しいと言われているの」と。そうよね、戦友や同士として、人間としては、誰よりサルトルはボーヴォワールを愛していますが、女として尊重してもらったとは言い難い。彼女の掌で遊ばすには、サルトルは大き過ぎるのですね。ボーヴォワールほどの女性でも、男性には愛されたいのかと、ここでもぐっと彼女が身近に感じられました。
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12月15日(木)
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