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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「シークレット・サンシャイン」


こんな内容だったんですか!ポイント倍押しに惹かれて「美しすぎる母」を優先したため、延ばし延ばしになっていたこの作品を、やっと観ました。「オアシス」で、障害者・前科者には特に差別観の強い韓国の現状を、これでもかというほど見せつけながら、最後には力強い魂の救済を示してくれたイ・チャンドン監督。今回彼がテーマに選んだのは、伝統的な韓国の教えである儒教を凌駕せんとする勢いで、信者を増やしている(らしい)キリスト教です。運命に翻弄されるヒロインを軸に、信仰することの是非を問うのではなく、その姿勢を観客に問うているように感じました。この作品も大変厳しい内容ですが、やはりラストには大きな包容力と、魂の再生を感じさせます。


韓国・慶尚南道の田舎町の密陽(ミリャン)。夫を交通事故で亡くしたシネ(チョン・ドヨン)は、息子ジュンを連れてソウルから引っ越してきます。この地は亡き夫の故郷で、いつか密陽に帰り子供を育てたいというのが、夫の願いだったからです。車の故障で、自動車修理業を営むジョンチャン(ソン・ガンホ)と知り合うシネですが、何くれとなく彼女に世話を焼き、好意を示すジョンチャンにはつれない様子です。シネが町に馴染み始めた頃、ジュンが誘拐され殺害されるという事件が起こります。

すんません、大阪は終映まじかと言うこともあり、今回ネタばれです。

シネという人は、とても不器用な人です。韓国では感情を顕わにする人が多く、彼女のように喜怒哀楽の表現が不足している人は、「変わった人」と観られると思います。自分に対して無償の好意を示すジョンチャンに対しても、「俗物」と罵りながらも「感謝はしているのよ」と、ボソっとだけ言うのが精いっぱいです。なので善良そうだけど、彼女の嫌う「俗物」の塊であるような保護者や中年婦人たちと、居酒屋やカラオケに興じるシネは、相当無理しているなと感じました。

その無理は何のためかというと、やはり一人息子の存在ではないでしょうか?誰もが知り合いのような町で、しっかり根を張りたいのでしょう。しかしその不器用さは、素のままの自分ではなく、「資産家」として取り繕いが必要でした。彼女はソウルに住む実父とは確執があり、亡くなった夫も当時浮気をしており、決して円満な家庭ではなかったようです。夫の故郷に根を張ることで、一番愛されていたのは私たちだと思い込みたいシネ。誰も知らない土地で、頼る人もないシングルマザーが、人に馬鹿にされないように、ピアノ教師を生業にしたり、資産家を装って自分を飾る姿に、彼女の屈折した哀しみを観る気がします。

シネが唯一解放されたように喜怒哀楽を表に出せた相手が、息子のジュンでした。世に愛情表現に不器用な善人は多いですが、我が子を得た事で素直に愛情を表現出来るようになった、と言う人は多いと思います。薬局店のキム執事は、シネが夫の亡くなった不幸を嘆いているだろうと、キリスト教を布教し、心の拠り所を与えようとします。しかし「私は不幸ではないわ。息子と暮らしているもの。だから必要ないの」と答えるシネ。しごく当然な答えだと思いました。

しかしジュンが亡くなる事で、またシネの感情は閉ざされます。葬儀に泣かなかったシネに、亡き夫の姑は「子供が死んだのに、何故泣かない?私の息子まで殺し、孫まで死なせて、お前は鬼だ!」と罵ります。息子を殺しというのは、夫婦仲が悪かったことを言っているのでしょう。ジュンの死も、シネに責任がないとは言えないと、私も思います。

韓国では昔葬儀の時「泣き屋」という、葬儀の間中盛大に泣いてくれる人をお金で雇って来てもらう習慣がありました。悲しみが大きいほどよく泣くとされ、死者への哀悼の念の深さが表現されると思われていたようです。今は都市部では廃った習慣だと思いますが、ここ密陽は田舎です。日本の人が想像する以上に、姑の年代の人が、自分の子供の死に涙しない母親など、絶対認められなかったのでしょう。しかし涙の出ない自分に罪悪感を一番感じていたのは、私はシネ自身だったと思うのです。


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07月10日(木)
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