ID:10442
ケイケイの映画日記
by ケイケイ
[928055hit]
■「蝉しぐれ」
まさかこんなはずでは・・・。今年の初夏「阿修羅城の瞳」を観て染五郎にノックダウンした私。作品の方はバカだのチョンだの(そこまでひどくないか)散々な言われ方をしていましたが、染五郎のおかげで私にはほとんど問題なく楽しめ、何と今年唯一2回も観てしまいました。なので評判も上々のこの作品なら、染様主演ということもあって、文句など何も出ないと思っていました。わかっているのです、何故文句があるか。藤沢周平の原作を夏に読んでしまったのです。映画の前のほんの予習のつもりが、これほど心打たれる小説とは思っていませんでした。それなのに映画は私の感激したところが微妙どころか、ピンポイント攻撃でほとんど脚本からはぶかれています・・・。映画と原作は別物、比べるのは不毛というもの。わかっちゃいるけど、あぁ!今回原作との比較になるので、少々ネタバレです。
東北地方の小藩である海坂藩。牧文四郎(少年時代石田卓也のち市川染五郎)は、下級武士ながら人徳のある父助左衛門(緒形拳)、母登世(原田美枝子)の元、勉学に剣術に励む日々を送る一方、隣家の娘ふく(少女時代佐津川愛美のち木村佳乃)と、お互い淡い恋心を抱きあっていました。そんなある日、父が藩の家督争いの騒動に巻き込まれ、汚名を着せられ切腹。母と二人、世間の冷たい目の中を生きる文四郎。その上心の支えであるふくは、藩主の下女として江戸へ奉公に行ってしまいます。数年後青年となった文四郎に家老里村からお役目に戻すとの沙汰が。しかしこれには父の敵である里村の陰謀が隠されていました。
前半長い時間をさいて、文四郎とふくの淡い恋心、友人の逸平、与之助との友情など、父が切腹するまでは丁寧に描いており、明朗で快活な少年が、父の汚名のため、これからの長く暗く辛い日々を予感させるのを、長尺の原作を上手くまとめていました。子供時代を演じる二人は、石田卓也など棒読みせりふでしたが、容姿やしぐさなど清潔感があり、男としての強さの芽生えかける少年期を感じさせ、存在感がありました。それにも増して魅力的だったのは佐津川愛美。大きな目にとても力があり、決して器用に演じていたわけではないですが、ふくの芯の強さと賢さ一途さ、文四郎を思う気持ちの強さが痛いほど伝わってきます。二人して助左衛門の遺体を荷車で運ぶ場面は、健気さ純粋さ、そして心のたくましさが感じられ、この作品の中で一番秀逸に感じました。
しかし!この前半に唯一最大の脚色の欠陥が!私の見誤りでなければ、文四郎と助左衛門は実の親子として描かれていました。原作では文四郎は登世の兄の子で、幼い時養子にもらわれています。原作では厳格な登世より、穏やかな人格者の助左衛門を文四郎は慕っており尊敬もしています。血のつながりを越えた文四郎の思いに、文章や映像で語る以上の助左衛門の人物像が浮かび上がります。また囚われた助左衛門に会うのは家から一人という決まりに、妻の登世ではなく、跡取りの文四郎が会いに行くということに、昔の人の家に対する思い、それを理解して支える妻の美徳を感じるのです。原作でのち文四郎が楽しいはずの青春時代を父の汚名のため辛酸を舐めながら、自暴自棄にならずじっと耐え、家を絶やさぬよう自重する姿は、幼いながら男としての器の大きさと厳しさを感じさせ、本当に心打たれました。大げさでなく、原作では私は耐えて家を守る文四郎の姿に、日本人の強さと美しさを見た思いでした。こういう形でその国の人の心栄えを描くのは、決して他の国では見られないと思います。だから実子と養子では雲泥の差なのです。
後半文四郎が青年となるところから、私は不満が続出。上に書いた青春期の文四郎の苦労の描写が希薄。あれだけではいかに彼が家を守るため大変であったかが伝わりにくいです。お役回復までの文四郎の心の支えは、剣の腕を磨くことであったはず。その場面もなく生前の助左衛門の「お前は道場で一番筋がいいそうだな。矢田さんから聞いたぞ。」のセリフだけです。その矢田や矢田の妻も、原作では本筋ではありませんが、枝葉の部分として物語の陰影を深める大切な登場人物でした。あれくらいの役割なら、全部切ってしまった方が良かったかも。
[5]続きを読む
10月13日(木)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る